いよいよ最後の第4グループにたどり着いたのですが、このグループは各国の地方官と官職が記されていない人から成り立っています。
前半の4人はそれぞれ「筑前目」「壱岐目」「対馬目」「薩摩目」ですから、それぞれが赴任してる国では国守に次ぐナンバー2かと思われます。
春の野に霧(き)り立ち渡り降る雪と人の見るまで梅の花散る
筑前目田氏真神(でんしのまかみ)
「筑前目」は従8位下相当の官職で「田氏真神」は名未詳のようです。
しかしながら、この歌の持つ絵画的な美しさは非常に好ましく思えます。春の野をおおう霧と、そこに雪のように舞い散る梅の花という組み合わせは実に絵画的です。そして、それが前のグループの最後に位置する「大隅目榎氏」の「梅の花散り乱ひたる岡傍には」という表現を受けていることは明らかですから、最終グループの先頭ランナーとしては実に巧妙です。
春柳蘰(はるやなぎかづら)に折りし梅の花誰(たれ)か浮べし酒杯(さかづき)の上(へ)に
壱岐(いき)目村氏彼方(そんしのをちかた)
「壱岐目」は少初位上相当の官職で「村氏彼方」は名未詳です。
「梅の花誰か浮べし酒杯の上に」という表現は、何処か宴の終わりを予感させる表現です。そこには、「歓楽極まりて哀感多し」という武帝の「秋風辞」の一節を思い出せる風情があります。
鶯の声(おと)聞くなへに梅の花吾家(わぎへ)の園に咲きて散る見ゆ
対馬(つしまの)目高氏老(かうしのおゆ)
「対馬目」は少初位上相当の官職で「高氏老」は「高向村主老」ではないかと考えられています。
最終グループは今まで登場した題材を上手く使ってまとめに入っている雰囲気がします。ここでも、鶯に言及してそれと散る梅の花とを関連づけて前からの流れを切らさないように上手くつないでいます。この最終グループはなかなかに巧妙に題材を歌い込んでいますから、おそらくはそれぞれの地方官の中でも歌を得意とする人が選ばれてこの宴に参加したのかもしれません。
わが宿の梅の下枝(しつえ)に遊びつつ鶯鳴くも散らまく惜しみ
薩摩(さつまの)目高氏海人(あまひと)
「薩摩目」は大初位上相当の官職で、「高氏海人」は名未詳です。
「鶯がこれ以上に梅の花を散らさないように下の枝で鳴いている」というのは、終わりに近づいた「梅花の宴」を惜しむかのような風情です。これも、前からの流れを巧みに受けて、宴の終わりを予感させます。
梅の花折り插頭(かざ)しつつ諸人(もろひと)の遊ぶを見れば都しぞ思(も)ふ
土師氏御道(はにししのみみち)
「土師氏御道」には官職が記されていませんから、上級貴族などに支給された下級官人、いわゆる「資人」の類ではないかと考えられます。「諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ」というのは、彼もまた主人である上級貴族に付き添って太宰府にやってきたのであり、下級官人は下級官人なりの望郷の思いがあったのでしょうか。もしくは、最初に小野老が「わが家の園にありこせぬかも」と望郷の思いを詠んだことを踏まえて、最後にその主題をもう一度回帰させたのでしょうか。想像をたくましくすれば、彼はその「小野老」さんの資人だったのかもしれません。
妹(いも)が家(へ)に雪かも降ると見るまでにここだも乱(まが)ふ梅の花かも
小野氏国堅(くにかた)
「小野氏国堅」にも官職は記されていませんから、彼もまた資人の一人だったのかもしれません。
ただし、突然に「妹が家に雪かも降ると見るまでに」と、恋しい人が登場するので驚かされます。ただし全体の流れから見れば違和感はあるのですが、それに続けて「ここだも乱ふ梅の花かも」と歌われると、それはとても美しい心象風景へと発展していくのです。
果たして、この宴が開かれたときに梅の花が雪のように散っていたのかどうかは分かりません。しかし、「歌」という世界でその梅の景はますます美しさを増していき、それ故にに一つの幻想的な風景へとここでは深まっているように思うのです。
鶯の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため
筑前掾門氏石足(じやうもんしのいはたり)
「筑前掾」は筑前国の地方官で」従7位上相当の官職です。「門氏石足」は「門部石足」だと考えられています。
ここも手慣れたもので、「小野氏国堅」が突然「妹が家にと詠んだのを受けて、「梅が花散らずありこそ思ふ子がため」と受けることでおさまりをつけています。恋しい人の家で雪かと思うように梅の花が散っているという幻想的な風景をうけて、恋い慕う人のために梅の花に散らないでほしいと呼びかけるのです。
霞立つ長き春日(はるひ)を插頭(かざ)せれどいや懐(なつか)しき梅の花かも
小野氏淡理(たもり)
「小野氏淡理」には官職は記されていないのですが、おそらくは「小野朝臣田守」ではないかと考えられています。そうだとすると、後に従5位上まで精進し「遣新羅大使」なども務めていますから、間違いなく上級貴族に位置する人物です。そうすると、官職で言えば最初の主賓グループと肩を並べる存在なのですが、何故かここには官職は記されていないのです。
おそらくは、太宰府の官僚機構の外側に位置する客分のような存在としてこの宴に参加していたのかもしれません。
何故ならば、このような「宴」というのはただのお遊びではなくて、律令体制下における統治機構の一装置としての役割があったのではないかと考えられるからです。
それは、中国では古くから行われていることで、臣下が皇帝に奉仕し、皇帝はその奉仕に対して宴を催して臣下を招くということが「重要な儀式」として行われていたのです。このあたりのことを詳しく掘り下げていくととんでもなく難しい領域に踏み込むことが、最近行われた万葉文化館での古代学講座「家持の見た雪景~中宮西院の応詔歌」でよく分かったのですが、簡潔に結論だけ言えば、それは統治の正当性をどのように担保するのかという問題に突き当たるということなのです。
万葉以前の社会では、その正当性というか必要性は、朝鮮半島からの鉄の入手という実に分かりやすい理由の上に成り立っていました。
当時の日本では鉄は絶対に必要な資源でありながら、それを国内で生産することは出来ず、その全てを朝鮮半島からの輸入に頼っていました。そして、その朝鮮半島とのやり取りは群小勢力がバラバラに朝鮮半島と交渉するのではなく、何処か一つに窓口を一本化して交渉した方が有利であることは誰の目にも明らかでした。
いわゆる倭国の王権はその様な鉄の流通という分かりやすい現実的な基盤の上に成立し、発展していったと考えて概ね間違いはないのです。
しかし、朝鮮半島情勢の不安定化と、鉄生産の内製化の実現によって、鉄流通における一本化という名目だけでは統治の正当性を担保できなくなっていったのが雄略以降の時代でした。
そして、ザックリとした言い方をすれば、大和王権による統治の正当性を中国から導入した律令体制というイデオロギーに依拠するようになったのです。
それは、鉄の流通という剥き出しの現実的利益によって王権を納得させるのではなく、律令という法体系によって、つまりはある種のイデオロギーによって正当化させようとしたのです。そして、イデオロギーによる正当化にはある種の儀式化が絶対に必要であり、その様な儀式の一つが「宴」だったわけです。
その儀式の原型は、中国における皇帝と臣下の間で行われていたのですが、それを原型として大和王権内においても大君(天皇)と一部の上級貴族の間で行われたのでしょう。そして。その様な儀式が次第にそれがより下のレベルでも行われるようになっていったのです。
この大伴旅人催した「梅花の宴」もまた、太宰府という統治機構の正当化のためには絶対に必要な儀式だったのでしょう。
そこでは、太宰府の長である旅人がその官僚機構の役人を招くのであって、それは同時に旅人とそれ以外の官人との間の上下関係を穏やかに確認する場でもあったのです。
そして、そう言う場において最も重要だったのが、宴の主人が「題材」を指定して、招かれた人々がその示された題材に添って歌を詠むことだったのです。
ですから、この宴の締めとして上級貴族の一員と思われる「小野氏淡理」が締めを務めながらも官職が記されていないのは、彼がその様な官僚機構の外部に位置していることを示唆しているのではないかと思われるのです。
そして、そう言う立ち位置は、もしかしたらこういう宴の締めを務める人としてピッタリだったのかもしれません。
そして、そんな「小野氏淡理」の歌は宴の締めくくりとしては実に見事な一首になっているのです。
「霞立つ長き春日」とか「いや懐しき梅の花かも」という表現からは何処か「永遠」なるものを想起されるからです。
そして、それはこの宴に対する名残惜しさを言うだけでなく、この宴によって具体化された律令体制下における統治の永遠性にも結びついていくのです。(終わり)