2月の「万葉集をよむ」講座は「巻5 847~852」の「梅の歌に和へたる歌」6首でした。講師は吉原啓先生です。
この6首は、言うまでもなく1月の講座で取り上げた「梅花の宴」32首に「和(こた)へた」歌と言うことになるのですが、「梅がいつ日本に伝わってきていたのか」という話も絡んで、なかなかに興味深い内容でした。
まず、今回取り上げられた6首を紹介しておきます。
員外(いんがい)、故郷を思(しの)へる歌両首
847 吾(わ)が盛(さか)りいたく降(くた)ちぬ雲に飛ぶ薬食(は)むともまた変若(を)ちめやも
848 雲に飛ぶ薬食(は)むよは都見ば卑(いや)しき吾(あ)が身また変若(を)ちぬべし
後に追ひて梅の歌に和(こた)へたる四首
849 残りたる雪に交(まじ)れる梅の花早くな散りそ雪は消(け)ぬとも
850 雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛(さか)りなり見む人もがも
851 吾(わ)が屋戸(やと)に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも
852 梅の花夢(いめ)に語らく風流(みや)びたる花と吾(あ)れ思(も)ふ酒に浮かべこそ
まずこの6首の特徴はどれもが詠み手の名前が記されていないことです。しかしながら、冒頭の「故郷を思へる歌」2首は、二つ揃って望郷の歌になっていますからおそらくは「連作」として作られたものと思われます。
「変若ちめやも」とは読みにくい言葉なのですが「をちめやも」と読むそうで、「若返ることはないだろう」という意味になります。いつの間にか盛りの時は過ぎてしまって、たとえ空を飛べるようになると言う薬を飲んだとしても再び若返ることはないだろうと嘆いているのが847番の歌なのです。
そして、これだけでは全く「故郷を思へる歌」にはなっていないのですが、それに続く848番で、空を飛べるようになる薬を飲むよりは、一目都を見ることが出来ればこの忌まわしい我が身も若返ること出来るだろうにと続けることで「故郷を思へる歌」となるのです。
つまりはどう考えてもこの2首は同一人物の手によって詠まれた歌だと考えざるを得ないのです。
また、それに続く「梅の歌に和へたる」4首も前の歌を受けて次の歌が見事に成立するように読まれていますから、それもまた同一人物による「創作」と考えるのが妥当だと思われるのです。
この2首と4首は、見かけは「梅花の宴」に参加しなかった(出来なかった)人たちが、その宴で読まれた32首の歌に触発されて後から詠んだ歌を追補したように見えますし、その様に説明されています。しかし、実態はある特定の誰か一人の手によって為された「文学的営為」ではないかと推測されるのです。
ただし、その辺りのことは一つずつ細かく検証しながら考えていきたいと思います。
まず、最初に気になるのが「員外」という表現です。
これは、そのまま普通に読めば「数に入っていなかった人たち→員数外の人」という雰囲気ですから、「梅花の宴」に参加して歌は詠んだものの、その宴の歌として収録された32首には入らなかった人の歌という感じになります。私も、この「員外」という文字を見て、素直にそう感じました。
しかし、世の中には難しいことを考える人もあって、律令に定められた正規の定員数を越えて任命する官職として「員外帥(いんげのすけ)」というものがあるので、この「員外」はその「員外帥」ではないかという説もあるそうなのです。そして、この「員外帥」には仕事が忙しいので臨時に増員が迫られたときに任命されるのですが、中には罪を得て左遷された上級貴族にこの「員外帥」が与えられることがあるそうなのです。
ですから、この「員外」というのは、太宰府に左遷された大伴旅人のことではないかというのです。
この説を初めて唱えたのは江戸時代の有名な万葉学者である「契沖」なのですが、現在ではこの説はほぼ否定されています。
何故ならば、太宰府への派遣を「左遷」と感じるのは平安期の菅原道真の印象によるものであって、奈良時代初期における太宰府の長官というのは極めて重要な役職であって、「左遷」というイメージではなかったからです。もちろん遠く都を離れての暮らしは不本意な部分もあったでしょうが、当時の朝鮮半島情勢や唐との関係を考えれば重要な官職だったのです。
もっとも、その太宰府の長官として在職中に何か失態をしでかして「員外帥」になると言うことも可能性としてはあります。しかし、もしもそう言うことがあったならば何らかの記録が残るはずですし、何よりも大伴旅人は大納言に昇進して都に帰るのですから、やはり「員外」=「大伴旅人」とするには無理があるようです。
しかしながら、「員外」という表記から旅人の作とするには無理があるのですが、この2首の表現や内容を見ていくと、この2首は大伴旅人の手になるものではないかと思われる節もあるのです。
それは、明確に旅人の歌と分かるものとして、太宰府での望郷の歌として以下のような歌を詠んでいるからです。
331 吾が盛りまた変若(を)ちめやもほとほとに寧樂(なら)し京(みやこ)を見ずかなりなむ
「吾が盛り」や「また変若ちめやも」という表現が同一ですし、848では都を見ればまた若返るだろうにと嘆いているのに対して、この331では都を見ることもないだろうと嘆いているのは類想だといえそうなのです。
もちろん、これだけの根拠で、この2首の作者を大伴旅人だと断定することは出来ませんが、実はこれに続く「梅の歌に和へたる四首」もまた、これと非常に似通った旅人の歌が存在しているのです。
1542 わが岡の秋萩の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも
1640 わが丘に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも
ともに大伴旅人の歌なのですが、1542の「散るべくなりぬ見む人もがも」と言う表現は851の「散るべくなりぬ見む人もがも」と同一です。
さらに、851の「吾(わ)が屋戸(やと)に盛りに咲ける梅の花」が1640では「わが丘に盛りに咲ける梅の花」となっていて、その違いは「屋戸」と「丘」の違いだけなのです。
たった一つの相似形で同一人物と断定するには無理がありますが、これくらいに似通った表現と言いましが複数出てくると、かなりの高い確率でこの「詠み人知らず」の歌は旅人の作ではないかという可能性が浮かび上がってくるのです。
そうなると、そこにもう一つの重要な疑問が浮かび上がってきます。
それは、もしもこの32首に続けて追補した6首が旅人の作だとするならば、彼はどうしてそれを「詠み人知らず」として収録するような回りくどいことをしたのかという疑問です。
その事について、次回はじっくり考えてみたいと思います。(次回に続く)