万葉集を読む(40)~(大伴旅人)「梅の歌に和へたる歌 巻五 847~852」(2)

もしもこの6首の歌が大伴旅人のものだとすれば、彼はどうしてこれらの作に自らの名を冠しなかったのでしょうか。
その事について考えていく上で重要なことは、この6首と、それに先立つ32首で題材となった「梅」の立ち位置です。「梅」は「桜」と違って日本に自生していた植物ではなくて、その起源は中国だと言われています。そして、その「梅」が日本に伝わってきたのはおそらくは「奈良時代」だろうと推測されてきました。

万葉集に読まれている植物のことならば、まずは参考にすべきだとされている木下武司氏の「万葉植物文化誌」には、我が国でもっとも古い梅の記録は、「万葉集よりやや前に成立した懐風藻の葛野王の五言律詩」だとした上で、「考古学的遺物としても縄文・弥生時代は言うに及ばず古墳時代の遺跡からも出土していない」と記しています。
そして、それを踏まえた上で「万葉時代は梅が渡来して間もない時期であったと考えられ、梅を知るのは貴族など一部の特権階級に限られていたと考えて間違いない」と断定しているのです。

大阪府立花の文化園の紅梅

この定説に基づくならば、旅人が催した「梅花の宴」は、その様な貴重で美しい「梅」を庭園に植えて、それをみんなで観賞しながら歌を詠んだ優雅で貴族的な遊びだったと考えられます。つまりは、そこで詠まれた32首も、それに追補された6首も、すべてその様な貴重な「梅」の花を愛でて歌われたものだと言うことになるのです。

ところが、最近の考古学的知見はこの定説に疑問を呈するようになっているようなのです。

「魏志倭人伝」の中にも「梅」と思われる植物についての記述があるという説も重要なのですが、それよりも縄文時代の遺跡からすでに多数の「梅」の核が出土している考古学的事実の方がより重要なのです。
例えば、国立歴史民族博物館の「日本の遺跡出土 大型植物遺体データベース」で検索すれば、縄文時代の遺跡から多数の「梅」の遺物が発掘されていることが簡単に確認できるのです。

そのデータベースで検索してみれば、例えば、縄文時代の遺跡だけに限ってみても、秋田県の「手取清水遺跡」、鳥取県の「古市遺跡群」、長崎県の「雪浦清水遺跡」、熊本県の「太郎迫遺跡」の4カ所から「ウメの核」が出土しているのです。
これが弥生時代になると30を超える遺跡から出土しています。そして、時代を古墳時代まで広げてみれば北は岩手県から南は鹿児島県まで、ほぼ日本中から「梅」の遺物が出土しているのです。

つまりは、かつては定説であった「考古学的遺物としても縄文・弥生時代は言うに及ばず古墳時代の遺跡からも出土していない」というのは、最近の知見から見れば明らかに否定されているのです。
さらに、鳥取県の「古市遺跡群」の発掘調査報告書には「梅」の栽培が行われていたことが記されているのです。
縄文晩期の遺跡である「古市遺跡群」で「梅」の栽培が行われていたとするならば、古墳時代にはすでに日本中で栽培されていたと考えても不思議ではありません。

中国の古い農書である「斉民要術」に青梅を竈の煙で燻した「烏梅(うばい)」なるものが紹介されています。
この「烏梅」は日本でも古くから民間薬として重宝され、「鎮痛・解毒作用がある健胃整腸の妙薬」とされていました。効能は「熱冷まし」「下痢止め」「咳止め」「食物や薬物中毒」など多岐にわたっていて、現在も奈良県月ヶ瀬村等では生産されているようです。
ですから、かなり古い時期から薬用として「梅」が栽培されていたと考えて間違いはないようなのです。

そうすると、奈良時代にあって「梅を知るのは貴族など一部の特権階級に限られていた」という見方は明らかに誤りだと言うことになります。
そして、そう考えるならば、旅人が催した「梅花の宴」の意味や、そこで詠まれた32首、後に追補された6首の意味合いは全く変わってくるのです。

「自然は芸術を模倣する」という言葉があります。

確か、オスカー=ワイルドの言葉だったと記憶しています。

「梅」は一部の貴族だけが知ることが出来る貴重な植物ではありませんでした。おそらく、薬用として日本各地で栽培されていた可能性が高いのです。ですから、ごくありふれた植物とはいえなくても数多くの日本人はその花を目にしていたはずです。
しかし、その「花」を美しいものとして観賞する感性は持たなかったはずです。

大阪府立花の文化園の白梅

いや、もしかしたらその花を見て美しいと思う人はいたかもしれませんが、その感性が共同体の中で共有されることはなかったはずです。何故ならば、共有されるためには、その感性は「対象化」される必要があったからです。
しかしながら、その「対象化」は、「梅の花」の美しさに気づいた人が「梅の花って美しいよね」と呟くだけではだめなのです。
そんな呟きだけでは、共同体のメンバーは変わり者が訳の分からないことを呟いているとしか思わないのです。

必要なのは共同体の多くのメンバーを納得させるだけのパワーを持った「対象化」であり、それこそがまさに「芸術」の役割だったのです。
そして、万葉の時代に「梅の花」の美しさを納得させたのは、おそらくは中国から伝わってきた「梅花落」などに代表される文学作品だったと考えられるのです。

梅花落 鮑照

中庭雜樹多(中庭に雜樹多きも)
偏為梅咨嗟(偏えに梅の為に咨嗟す)
問君何獨然(君に問う何ぞ独り然るや)
念其霜中能作花(念え其霜中に能く花を作し)
露中能作實(露中に能く実を作すを)
搖蕩春風媚春日(春風に搖蕩し春日に媚ぶる)
念爾零落逐寒風(念え爾らは零落して寒風を逐い)
徒有霜華無霜質(徒らに霜華有って霜質無きを)

奈良時代の貴族たちは、中国から次々ともたらされる文学作品を通して、各地で咲いている「梅の花」の美しさを発見したのです。
ですから、「梅を知るのは貴族など一部の特権階級に限られていた」という言葉は、「梅の花の美しさを知るのは貴族など一部の特権階級に限られていた」とすれば正しかったのです。
そして、その感性が貴族という共同体の中ですみやかに広まっていったことは奈良時代の庭園の構成を見ればよく分かります。

すでに飛鳥京跡苑池では「梅」が重要な樹木として植えられていますし、平城京東院庭園でも同様です。そして、平安京に移っても庭の重要な樹木として「梅」は植え続けられていったのです。それらは、薬用の烏梅を作るために栽培されているのではなくて、純粋に観賞用の植物そして育てられていたことは言うまでもありません。

その様な時代背景を踏まえれば、旅人によって催された「梅花の宴」は、ただ単に、優雅で貴族的な遊びだけではなかったことが浮かび上がってくるのです。(次に続く)