万葉集を読む(41)~(大伴旅人)「梅の歌に和へたる歌 巻5 847~852」(3)

すでに紹介したように、日本において「梅」が初めて文学作品に登場するのは「懐風藻」に収められている葛野王の「春日翫鶯梅」です。

春日翫鶯梅 一首(春日鶯梅を翫ぶ)

聊乘休假景(聊[いささか]休假の景に乘り)
入苑望青陽(苑に入つて青陽を望む)
素梅開素靨(素梅素靨[そよう]を開き)
嬌鶯弄嬌聲(嬌鶯[きょうおう]嬌聲[きょうせい]を弄す)
對此開懷抱(此に對して懷抱[かいほう]を開き)
優足暢愁情(優に愁情を暢ぶに足る)
不知老將至(老の將に至らむを知らず)
但事酌春觴(但だ春觴[しゅんしょう]を酌むを事とす)

これは、「梅花落」などに収められている漢詩の影響のもとで詠まれたものであることは明らかです。
「老の將に至らむを知らず 但だ春觴を酌むを事とす(我が身に迫る老いはどうでも良く、ただ春の日に酒を飲み干そうではないか)」等というのはまさに李白を思い出させます。
そして、そのような文学的営為があってこそ、はじめて「梅の花」は様々な人生を背負うことが出来るようになるのであって、その「重み」があってこそ、はじめて「貴族という共同体」の中において「梅の美」を「共有」することが可能となったのです。

大阪府立花の文化園の梅園

そう考えれば、旅人が催した「梅花の宴」は、この葛野王の営みをさらに一歩進めようとした「文学的営為」だったことに気づかざるを得ないのです。
その一歩とは、「漢詩」ではなくて「和歌」によって「梅の美」を対象化しようとした事でした。
それは、言葉をかえれば、「漢詩」という形態でもたらされた中国的な「梅の美」を、「和歌」という形態でとらえなおすことでよって、より「日本化」をはかろうとしたのでした。
つまりは、中国から伝わってきた漢詩などに触発されながら、「梅の美」を様々な視点から「大和言葉」によって表現しようとしたものだったのです。

そして、そう言う視点に立つのならば、その32首に続けて「故郷を思へる歌」2首と、「梅の歌に和へたる歌」4首が追補されたのは、その32首によって試みられた「文学手営為」の「まとめ」のような意味を持ったのではないかと思われるのです。

例えば、「故郷を思へる歌」2首には「梅」は登場しません。

847 吾(わ)が盛(さか)りいたく降(くた)ちぬ雲に飛ぶ薬食(は)むともまた変若(を)ちめやも
848 雲に飛ぶ薬食(は)むよは都見ば卑(いや)しき吾(あ)が身また変若(を)ちぬべし

この背景には「梅花落」には、北方の辺境防備の兵士が詠んだ(おそらくは、そう見立てたものと思われます)ものが含まれていることが念頭にあったものと思われます。
そこでは詠われているのは、故郷を遠く離れた官人や兵士たちが、梅の花に託してその故郷に残した家族や友人などを思うというスタイルなのです。
「梅の花」というのは長い冬を耐えて真っ先に花を咲かせる植物です。そして、その花は未だ厳しい寒さの中で、時には雪さえも舞う中で咲き誇る花であり、それ故に厳しさに耐えて務めを果たす辺境防備の兵士の歌の中で取り上げられ、それが「望郷の歌」という文脈の中で詠まれるようになったのです。

大阪府立花の文化園の紅梅

つまりは、中国においては、「梅の美」の背景には「望郷」というバックボーンがあり、そのことを、旅人は「故郷を思へる歌」という形でもう一度想起させたかったのでしょう。
そう言えば、「梅花の宴」32首の中にも、小野老さんの「望郷の歌」がありました。

梅の花今咲ける如(ごと)散り過ぎずわが家(へ)の園(その)にありこせぬかも

それ以外にも、算師志氏大道の「春の野に鳴くや鶯懐(なつ)けむとわが家(へ)の園に梅が花咲く」なども、「わが家」を故郷に残してきた家だと解すれば、これもまた「望郷の歌」です。
対馬目高氏老の「鶯の声(おと)聞くなへに梅の花吾家(わぎへ)の園に咲きて散る見ゆ」もまた同様です。
それから、土師氏御道の「梅の花折り插頭(かざ)しつつ諸人(もろひと)の遊ぶを見れば都しぞ思(も)ふ」などは、まさに遠く離れた都への望郷そのものうたいあげたものでした。

そして、このような文学的営為が積み重ねられることで、多くの人が望郷の思いを梅の花に託し、その思いを通して梅の美を確かなものにしていったのです。

確かに、そう言う文学的営為がきわまってくれば、小林秀雄が語ったように「美しい花がある。花の美しさと言うようなものは無い。」と言うことになるのかもしれません。しかし、初めて美しい梅の花と出会ったときに、それを自らの共同体の中で共有するためには、その「美しさ」を対象化しなければいけなかったのです。そして、それはいつしか「花鳥風月」と呼ばれるような「定形化」に落ちついていって、それが後の時代になれば一種の芸術的堕落と感じられたことは否定できません。

しかし、この万葉の時代にあっては、彼らが初めて気づいた「美しい梅の花」を様々な角度から対象化しようとしたのでした。
ですから、この大伴旅人を中心として営まれた「梅花の宴」の32首と、それに続く「梅の歌に和へたる歌」6首は、「梅の花」という「新しい美」を模索するための壮大な文学的営為だったのです。