万葉集を読む(42)~(大伴旅人)「梅の歌に和へたる歌 巻5 847~852」(4)

「員外」の2首に続いて、作者名を記すことなく「後に追ひて」として4首を記しています。
形としては「梅花の宴」への参加がかなわなかった人たちが、その宴で詠まれた32首に触発されて詠んだ歌と言うことになっています。しかし、この4首もまたおそらくは旅人が「梅花の宴」を一つの文学作品として完結するために自らが詠んだ歌だと考えて間違いないでしょう。

何故ならば、この4首の中で使われている表現やスタイルが旅人の歌とそっくりであることはすでに言及したのですが、それ以上に梅花の宴の32首とこの追補された2首と4首をつなげてみれば、そこには見事なまでに一つのまとまりを持った「文学作品」が完結するように見えるからです。そして、その様なまとまりというものは、宴で詠まれた歌や、その歌に触発されて後に詠まれた歌を適当に並べただけでは為し得ないことだからです。

専門家というものは確実な証拠が提出できないことに関しては「分からない」という抑制的な姿勢を取ることが求められます。
おそらく、その事は仕方のないことなのだろうと思われるのですが、考えてみれば不自由な話です。しかし、素人というのはある程度自由に想像の羽を伸ばすことは許されていいでしょう。

おそらく、旅人は中国の古典に触発されて、「梅の花の美」を和歌という形式で再発見しようとしたのだと思われます。それは、万葉集と言えば、古代人の率直な感性を大らかにうたいあげた作品集だという「常識」とは相反するものです。
しかし、昨年の6月から万葉文化館の講座に通うことによって、万葉集というものはそれほど単純なものではないことに気づかされました。その背景には中国の古典や仏典に対する膨大な知識が存在していて、そして、その膨大な知識を自由に駆使できる高い教養を持った「貴族」という存在を抜きにしては万葉集というものは成り立たないことに気づかされたのです。

おそらく旅人が、太宰府支配下の官人を招いて「梅花の宴」を開いた目的は「文学的営為」だったはずです。
彼はその宴の課題が「梅の花」であることを事前に知らせ、そして、その知らせを受けた官人たちもまた周到に準備を行って当日の宴に臨んだことでしょう。
当時の中国では役人たるものは詩を読むことは必須技能であり、さらにはその詩を王羲之などを規範とした書体で書けることもまた絶対条件でした。その事を踏まえれば、この「梅花の宴」は招かれた官人たちにとっては真剣勝負の場だったはずです。

招かれた官人たちは中国の古典に触発されて、様々な視点から梅の花の美しさを詠み上げ、その文学的営為は主宰者である大伴旅人を十分に満足させたことでしょう。そして、それが彼の文学センスを十分に満足させたものだったが故に、おそらくはある程度の脚色等も加えて万葉集に「梅花の宴23首」として作品化したのでしょう。
おそらくは、その様にして、日本の文学史上において初めて梅の花が詠まれた瞬間が万葉集の中に刻み込まれることになったのです。そして、旅人はその文学的営為をより確かな形で定着させるために、自らの手で「まとめ」として「員外」の2首と「後に追ひて」としての4首を添えたのでしょう。

旅人は「員外」の2首において、梅の花は望郷の思いを託して詠まれるものであることを示唆しました。
そして、それに続く「後に追ひて」の4首では、「梅花の宴」で詠まれた歌を総括しているように感じるのです。

  1. 849 残りたる雪に交(まじ)れる梅の花早くな散りそ雪は消(け)ぬとも
  2. 850 雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛(さか)りなり見む人もがも
  3. 851 吾(わ)が屋戸(やと)に盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも
  4. 852 梅の花夢(いめ)に語らく風流(みや)びたる花と吾(あ)れ思(も)ふ酒に浮かべこそ

ここで旅人が確認しようとした「梅の花の美」は、例えば「梅と雪」であり、「散る梅の花」であり、さらには「酒に浮かべる」ものだったのでしょう。
そして、その様に総括することによって、例えば、それまで多くの人が何も思わなかった「雪の中に咲く梅の花(残りたる雪に交れる梅の花)」に「美しさ」を感じる感性が多くの人の中に育まれていくのです。さらに言えば、その梅の花の色はまさに雪から色を奪ったものだ(雪の色を奪ひて咲ける梅の花)という感性へと広がっていくのです。

それは「散る梅の花」にもあてはまるでしょう。
もちろん、「盛りに咲ける梅の花」も美しいのですが、それが散り始めた風情にも美を感じることによって、その散る様子を是非見て欲しいものだ(散るべくなりぬ見む人もがも)という感性が共有されていくのです。

さらに言えば、そんな散る梅の花を酒に浮かべてみれば、それまでは「お前、何してんねん」と突っ込まれていたものが、逆にそれが「美しい」行為として発見されるのです。
そして、その果てに梅の花自身が自分で自分のことを風流だと自慢しても(梅の花夢に語らく風流びたる花と吾れ思ふ)それをいっこうにあやしまない感性にまで至るのです。

おそらく、こういう文学的営為が共有されるまでは、誰かが「梅の花が自分は雅だと言ってるよね」などと言えば、「お前、なにアホな事いうてんのや!」と言われたはずなのです。
ましてや、「梅の花が自分を酒に浮かべてと言っている(酒に浮かべこそ)」等と言えば、正気を疑われたかもしれないのです。

そして、その様な旅人の試みが凄かったのは、その様にして見いだして総括した「梅の花の美」が、この後もまたスタンダードとして引き継がれていったことです。
もちろん、平安にはいると花の主役は梅から桜に変わるのですが、それでも梅の花を読むときの規範は常にここに帰ってくるよう見えることを思えば、その高みには驚かざるを得ないのです。(終わり)