万葉集を読む(43)~(大伴旅人)「松浦河に遊ぶの序と歌 巻5 853~863」(1)

今年度最後の3月の「万葉集を読む」講座は「松浦河に遊ぶの序と歌」という幻想的な作品が取り上げられて、講師は大谷歩先生でした。

なお、聞くところによると、この万葉文化館をめぐってあれこれと困った話が出ているようです。その主なポイントは巨額の費用を投じて施設を作ったものの、当初想定した入場者数の半分にも満たないことや、設立当初に組織された「友の会」が解散することなどを取り上げて「閉鎖」の話が出ているというのです。
確かに、驚くほど立派な施設であるのに利用する人が多いとはいえないので、受付などに座っている職員の方々は手持ちぶさたという感は拭いきれません。もしも、これが大阪だったら間違いなく「文化大革命」の嵐の中で閉館していただろうなと思ったものです。

しかし、橋下流の「文化大革命」の根本的な誤りは文化の価値を経済的論理だけで判断したことでした。稼げる文化は価値は高いが、稼げないような文化は消えてなくなってもかまわないという論理は分かりやすいのですが、それの危うさは文楽をめぐる一連の出来事に集中的に表れました。とりわけ、補助金を削減されて文楽が存続の危機を迎えたときに、必死でそれに抗う中で脳梗塞に倒れた竹本住太夫氏は、そう言う危うさの象徴的な存在でした。
しかしながら、来年度の講座の日程もアナウンスされ、さらには「友の会」が行っていた「日本書紀を読む」の講座も文化館主催の講座として継続されることも告知されましたので、この「閉館」話は喫緊の課題というわけでなく、くすぶっているというレベルのようです。

万葉集の文化的価値に疑問を持つ人はいないでしょう。
その万葉集において「ふるさと」という言葉が出てくれば、それは一般的には「飛鳥」のことを言うそうです。
この日は天気もよく暖かかったので、いつもより早く家を出て、しばし文化館の周辺を散策しました。文化館の周辺には亀石や酒船石という遺跡があるのですが、そこから少し足を伸ばすと飛鳥の宮の遺跡が広がっています。
「飛鳥板蓋宮」跡と伝えられている遺跡には草が生い茂り、訪ねる人もいない中で一人たたずんでいると、突然に雲雀がけたたましく鳴きながら空に向かって駆け上がっていきました。はてさて、どこまで上がっていくのかと見上げていると、彼はどこまでもどこまでも駆け上がっていって、やがて鳴き声も姿も青空の彼方に没してしまいました。

うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しもひとりし思へば

おそらく、万葉集を少しでも囓ったことがある人ならば、誰もがこの一首が思い出すであろう一瞬の光景でした。もちろん、家持が暮らしたのは飛鳥の宮ではなくて奈良の都でした。

伝 飛鳥板蓋宮跡周辺に広がる野原

しかし、家持が見た風景を1300年の時をこえて追体験できるのはこの飛鳥の宮跡だけかもしれません。そこでは、多くの人の努力によって、万葉人が「ふるさと」と呼んだ飛鳥の風景が良く保存されています。
そんな飛鳥において万葉研究の拠点があるというのは、この上もなく大切なことだと思うのです。

松浦河に遊ぶの序

余(われ)暫(たまたま)松浦の県(あがた)に往きて逍遙(せうえう)し、聊(いささ)かに玉島(たましま)の譚(ふち)に臨みて遊覧せしに、忽ちに魚を釣る女子(をとめ)らに値(あ)ひき。
花のごとき容(かほ)双無(ならびな)く、光(て)れる儀(すがた)匹(たぐひ)無し。柳の葉を眉(まよ)の中に開き、桃の花を頬の上に発(ひら)く。意気(こころばへ)雲を凌(しの)ぎ、風流(みやび)世に絶(すぐ)れたり。
僕(われ)問ひて曰はく「誰(た)が郷(さと)誰(た)が家の児らそ。若疑(けだし)神仙ならむか」といふ。
娘(をとめ)ら皆咲(ゑ)みて答へて曰はく「児(こ)らは漁夫(あま)の舎(いへ)の児、草庵の微(いや)しき者(ひと)にして、郷(さと)も無く家も無し。何(なに)そ称(な)を云ふに足らむ。
ただ性(さが)水を便とし、復(また)、心に山を楽しぶのみなり。
或るは洛浦(らくほ)に臨みて徒(いたづ)らに玉魚を羨(うらや)み、乍(ある)は巫峡(ふかふ)に臥(ふ)して烟霞(えんか)を望む。
今邂逅(たまさか)に貴客(うまひと)に相遇(あ)ひ、感応に勝(あ)へずして、輙(すなはち)誠曲(わんきよく)を陳(の)ぶ。而今而後(またいまよりのち)豈(あに)偕老にあらざるべけむ。
下官対(こた)へて曰はく
「唯唯(をを)、敬(つつし)みて芳命を奉(うけたまは)る」といふ。
時に日山の西に落ち、驪馬去(りばい)なむとす。遂に懐抱(くわいはう)を申(の)べ、因(よ)りて詠歌を贈りて曰はく

この作品は漢文で書かれた「序」と11首の歌から成り立っています。
まずは、この前半部分の「序」から詠んでいきたいと思います。

この漢文による「序」の題詞が少し変わっています。
例えば、「梅花の宴」の「序」では「梅花の歌三十二首并せて序」というように、「歌并せて序」と記されています。ところが、この作品では「松浦河に遊ぶの序」となっていて、「歌并せて」の部分が削除されているのです。
細かいことなのですが、それはこの「序」が通常の「序」よりも大きな意味を持ってることを示したかったのではないかと思われます。

この「序」は一読しただけで、その背後には膨大な中国の古典に対する教養が横たわっていることが窺えます。もっとも、それではどういう作品を典拠としているのかと問われれば、私には全く分からないのですが、それでも「横たわっている」事を感じとることが出来る程度には、この一年近く講座に通うことで賢くはなったと言うことです。(^^;

余(われ)暫(たまたま)松浦の県(あがた)に往きて逍遙(せうえう)し、聊(いささ)かに玉島(たましま)の譚(ふち)に臨みて遊覧せしに、忽ちに魚を釣る女子(をとめ)らに値(あ)ひき。

ここでポイントになるのは「逍遙」です。これは、ただ遊びに行ったのではなくて、世俗を離れて素晴らしい景観の地を訪ね、そこで自らの思いを述べることを意味します。
それは藩安仁の「秋興の賦」などで「山川の阿(くま)に逍遙して、人感の世に放曠(ほうこう)せん」というような形で登場するのが一例です。
さらには、その背景には荘子の「逍遙遊」のように「世間の束縛から逃れて自由に生きる」というイメージが存在しています。

松浦川

つまりは、「余暫松浦の県に往きて逍遙し」というのは、そう言う最新流行の中国風を気取った感じがあるのです。

それでは、どこを訪ねたのかというと「聊(いささ)かに玉島(たましま)の譚(ふち)に臨みて遊覧せし」となっていて、そこで「魚を釣る女子(をとめ)らに値(あ)ひき」となっているのです。
この「玉島」という地で「魚を釣る女子」というイメージは、当時の人であれば「神功皇后伝説」がすぐに想起されるものでした。

古事記、日本書紀にはその玉島で神功皇后は御裳の糸を抜き、飯粒を餌にして年魚(あゆ)を釣ったと記されていて、その地では女人たちが裳の糸を抜いて鮎を釣ることが今も絶えないと書かれているのです。現地では今も、神功皇后が鮎釣りの時に立ったという石、「垂綸石」なるものが残されているようです。

垂綸石

この「序」では「魚釣る女子」となっているだけで、その「魚」が鮎かどうかは明記されていないのですが、それに続く11首では明確に「鮎」と記されています。
それを総体として読めば「松浦川で鮎を釣る」というイメージができあがり、そこから神功皇后伝説の「鮎釣り」の故事が浮かび上がってくるのです。

つまりは、創作の重心は中国の古典文学に寄りかかりながらも、その中に日本の神話世界のイメージを上手く滑り込ませているのです。(続く)

橘寺では早咲きの桜が咲き始めていました