さて、ここからがまさに漢籍に典拠を持った表現が続きます。そして、その漢籍に対する知識がなければ書かれている内容を正確に理解することはかないませんから、この作品は作り手には言うに及ばず、詠み手にもそれと同等の教養を要求しているのです。
ちなみに、この作品は作者が明確に記されていないにもかかわらず大伴旅人の作品だと言われるのは、吉田宜(よろし)の書簡を一番大きな根拠としています。
「宜啓(よろしまを)す。伏して四月六日の賜書(ししよ)を奉(うけたまは)る。」という書き出しで始まる吉田宜の旅人への返書の中で「兼ねて垂示(すいじ)を、奉(うけたまは)るに、梅苑の芳席(はうせき)に、群英の藻(さう)を述(の)べ、松浦の玉潭(たん)に、仙媛(やまひめ)の贈答せるは、杏壇(きやうだん)各言の作に類(たぐ)ひ、衝皐税駕(かうかうぜいが)の篇に疑(なぞ)ふ。」と記しているのです。
これもまた難解な漢文ではあるのですが、要約すれば「梅花の宴で多くの優れた人が歌を作り、松浦川の淵で仙女たちと歌を送りあったのは孔子の講壇で人々が意見を述べあったようだ」と記しているのです。
この返書から分かることは、旅人は「梅花の宴」と「松浦川に遊ぶ」の2作品を奈良にいる吉田宜に送っていると言うことです。
さらに、想像をたくましくすれば、その2作品は吉田宜と言う「読み手」を前提とした創作だった可能性も浮かび上がってくるのです。学問的には、それ以外にもこれを旅人の作品とする根拠が数多く指摘されているようなのですが、吉田宜と言う読み手を想定した創作物だとすれば、そこにわざわざ他人の作品を送る必要はないのです。
それにしても、奈良時代の貴族の教養とは凄まじいものであったと感嘆せざるを得ません。
旅人は玉島の淵で「魚釣る少女」と出会ったことを述べその「少女」たちが尋常ならざる美女だったことを叙述していくのですが、その叙述の典拠はすべて漢籍からのインスパイアーなのです。
花のごとき容(かほ)双無(ならびな)く、光(て)れる儀(すがた)匹(たぐひ)無し。
これは、唐初に作られた「游仙窟」などの物語のイメージが借用されていることは間違いあありません。
「游仙窟」にも「華容は婀娜(たおや)か、天上に儔(たぐ)ひ無く、玉體はなおやかにして、人の間に疋(なら)び少なし。」という記述があるのですが、旅人の美女に対するファースト、インプレッションもまたこのイメージを踏襲していることは間違いないようです。
ただし、この「松浦河に遊ぶの序と歌」に関しては旅人が主人公ではなくて、「暫(たまたま)松浦の県(あがた)に往きて逍遙(せうえう)」した人物が主人公であり、その主人公の話を旅人が聞いて、それを「序」と「歌」に記録したというスタイルをとっています。
ですから、美女に対する「花のごとき容(かほ)双無(ならびな)く、光(て)れる儀(すがた)匹(たぐひ)無し」というファースト、インプレッションは旅人のものではなくて、その主人公のものだという体裁をとっています。
さらに、その美女にの美しさについての記述が続きます。
柳の葉を眉(まよ)の中に開き、桃の花を頬の上に発(ひら)く。意気(こころばへ)雲を凌(しの)ぎ、風流(みやび)世に絶(すぐ)れたり。
美しい女性を形容するに「花のかんばせ」「柳の眉」と言われる源流がこのあたりにあるのかと思うんですが、それをさらに遡れば「游仙窟」などに「眉上は冬天に柳を出だし、頬中には旱地に蓮を生ず」とか「翠柳は眉の色を開き、紅桃は臉の新なるを亂る」などと言う表現が頻出しますから、結局はそれもまた中国に根っこを見いだすことになるのです。
そして、この主人公が出会った「魚釣る少女」たちの美しさを形容するのに「游仙窟」等の美女の表現を借りていることによって、彼女たちが普通の少女ではなくて「仙女」ではないかと読み手に思わせるのです。
ですから、主人公は彼女たちに次のように問いかけます。
僕(われ)問ひて曰はく「誰(た)が郷(さと)誰(た)が家の児らそ。若疑(けだし)神仙ならむか」といふ。
初めて出会った人に名前や身分をたずねるのはより親しくなりたいという意思表示なのであって、「誰(た)が郷(さと)誰(た)が家の児らそ。」がそれにあたります。しかし、主人公はそれだけではもの足りずにさらに「若疑(けだし)神仙ならむか」と付け足してしまうのです。
それに対する少女たちの答えは最初は素っ気ないものでした。
娘(をとめ)ら皆咲(ゑ)みて答へて曰はく「児(こ)らは漁夫(あま)の舎(いへ)の児、草庵の微(いや)しき者(ひと)にして、郷(さと)も無く家も無し。何(なに)そ称(な)を云ふに足らむ。
彼女たちが笑って答えるには「私たちは漁夫の家の子であって、貧しい草庵に住む貧しき身分のものです。ですから申し上げるような村も家もありません。どうして、名前などを申し上げる必要があるでしょうか」というのです。
しかし、この答え方の原型もまた「游仙窟」にあるのです。
「游仙窟」では、主人公が仙女を訪ねて山に分け入るのですが、やがて一人の女性が衣を洗っているところに出会いしばし休ませてほしいとお願いをするのです。
その時の女性の答えが「兒(われ)の家、堂舍は賤陋(せんおく)にして、供給(もてなし)は単疏(おろそか)なり、また、堪(た)へざらんを恐(おそ)る。吝惜(おしむ)に無(な)かざらむ」と言ってやんわりと断るのです。
名前を聞くのと休憩を乞うのとの違いはありますが、取りあえずは一度その申し出は断り、その断る理由が「松浦河に遊ぶ」では「草庵の微(いや)しき者」であり、「游仙窟」では「堂舍は賤陋(せんおく)にして」となっているのですから、それはまさに相似形です。
ですから、こういう言い方を少女たちがしたとしても、それをそのまま受け取るのは中国文学に対する無知をさらすようなことになるのであって、それ相応の漢籍に対する教養があるならば、まさにその様な断り方をしたからこそ彼女たちはますます「仙女」であるという確信が深まるのです。実際、彼女たちは「草庵の微(いや)しき者(ひと)にして、郷(さと)も無く家も無し。」といいながら、このあと、驚くようなことを言い出すのです。(続く)