万葉集を読む(45)~(大伴旅人)「松浦河に遊ぶの序と歌 巻5 853~863」(3)

名を尋ねられた乙女たちは「私たちは漁夫の家の子であって、貧しい草庵に住む貧しき身分のものです」などと答えておきながら、それに続けてとんでもないことを話し始めるのが今日の部分です。しかし、それがいかにとんでもない内容なのかは、漢籍に対する知識がなければ十分に理解が出来ないのですから、その辺りが「万葉集」の手強さかもしれません。

ただ性(さが)水を便とし、復(また)、心に山を楽しぶのみなり

そのまま現代語に置き換えれば、「ただ生まれながらにして水にしたしみ、山に遊ぶのが好きなだけです」ということになります。自らを「貧しい草庵に住む貧しき漁夫の家の子」だと名乗っているのですから、それは至極当然な事のように思えます。
しかし、ここで漢籍に対するそれなりの知識を持っている奈良時代の貴族であるならば、この言葉から論語の一節を連想するのです。
それが論語の「雍也篇」に登場する「知者は水を楽み、仁者は山を楽む」の一節です。

サラッと読みすごせば、漁師の家の子なので山や川にしたしんでいるんだなと通り過ぎるのですが、その背後に「知者は水を楽み、仁者は山を楽む」を読み取れば、すでにして彼女たちはただ者でないことに気づくのです。
そして、それに続く言葉はかなり難解です。何故ならば、それもまた漢籍の知識を必要とするからです。

或るは洛浦(らくほ)に臨みて徒(いたづ)らに玉魚を羨(うらや)み、乍(ある)は巫峡(ふかふ)に臥(ふ)して烟霞(えんか)を望む。

おそらく、この一説を読んですぐに意味が取れる人は殆どいないでしょう。私も大谷先生から解説してもらうまではまったくもって「なんのこっちゃ?」状態でした。

まずは、「洛浦に臨みて」の「洛浦」の意味が分かりません。
さらに、「玉魚を羨み」も意味不明ですし、「巫峡に臥して」の「巫峡」も何のことなのかさっぱり分かりません。

洛神賦

おそらく、万葉集の難しさは、こういう漢籍に典拠を持った「表現」が、そんな事はいちいち説明しなくても常識として分かるだろうと言う感じでポンと投げだれていることが大きな要因の一つとなっています。つまりは、奈良時代の貴族であるならば「いちいち説明しなくても常識として分かる」のですが、そこから1300年も経た現代人の私たちにとっては、それは「いちいち説明してもらわなければ理解できない」表現になってしまっているのです。

この「松浦河に遊ぶの序」の背景には、すでに紹介してきた「游仙窟」だけでなく、「神女の賦」や「洛神の賦」などという「仙女」をあつかった中国文学が横たわっているのです。そして、それらの物語では洛水のほとりにある「洛浦」という地は神仙境として有名であり、「巫峡(巫山)」もまた仙女が住まう場所として有名なのです。

ですから、彼女たちが自分たちのことを「洛浦に臨みて」とか「巫峡に臥して」と述べるのを聞けば、聞き手はますます彼女たちが「仙女」であることを確信するのです。
さらに、「玉魚を羨み」の背景には、「淮南子」の第17巻「説林訓」に登場する「河に臨みて魚を羨むは、家に帰りて網を織るに如かず」があります。ここから転じて「玉魚を羨み」とは「空しい望みを抱く」という意味になります。

よって、「洛浦(らくほ)に臨みて徒(いたづ)らに玉魚を羨(うらや)み」とは、「神仙境である洛補に臨むように空しい願いを抱いている」というニュアンスになるのです。
同じく、「巫峡(ふかふ)に臥(ふ)して烟霞(えんか)を望む。」も、「仙女の住まう巫峡に伏して木々にかかる靄(烟霞)を望むにまかせています」というニュアンスになります。
「郷(さと)も無く家も無し。何(なに)そ称(な)を云ふに足らむ」と言いながら、それに続けてこのように自己紹介されれば、それはどうあっても彼女たちは「仙女」だと思わないわけにはいかないのです。

それでは、彼女たちはどうして、突然その様な自己紹介をしてしまったのでしょう。

今邂逅(たまさか)に貴客(うまひと)に相遇(あ)ひ、感応に勝(あ)へずして、輙(すなはち)誠曲(わんきよく)を陳(の)ぶ。

意味がとりにくいのが「誠曲(わんきよく)を陳(の)ぶ」でしょう。
これは、謝霊運の「感応に勝へずして、誠曲を陳ぶ」という五言詩が背景にある・・・と言うよりは(^^;、そのまま使い回したものです。意味は「あまりの感動ゆえにねんごろに心を述べた」と言うことになります。
つまりは、あまりにも感動したので、思わず自分のことを詳しく述べてしまったというのです。

それでは、何故にそこまで感動したのかと言えば「邂逅(たまさか)に貴客(うまひと)に相遇(あ)ひ」、つまりは「偶然にも高貴なお方とお遭いしたから」だというのです。
しかしながら、それに続けて「而今而後(またいまよりのち)豈(あに)偕老にあらざるべけむ」はさすがに唐突な感は否めません。「偕老」は今も「偕老同穴」という言葉が残っているように「ともに老いる」ことです。ですから、「これからはともに老いをともにしましょう」、つまりは「結婚しましょう」というのですから、さすがに唐突な感が否めないのです。

洛神賦

おそらくは、物語としては、彼女たちが自らを「仙女」であると告白した後に、主人公との間で歌のやり取りがあって、その結果として「而今而後(またいまよりのち)豈(あに)偕老にあらざるべけむ」となったとすれば現代人の私たちにとっては理解しやすいのです。
何故ならば、この「序」に続けて紹介されている11首の内の8首は、男女がお互いの気持ちを確かめ合う贈答歌のスタイルをとっているからです。ですから、その歌のやり取りでお互いの気持ちを確かめ合った後に「而今而後(またいまよりのち)豈(あに)偕老にあらざるべけむ」となっていれば理解しやすいのです。
しかしながら、そう言う細かいことはあまり気にしなかったのが奈良時代のスタイルだったのかもしれません。

下官対(こた)へて曰はく「唯唯(をを)、敬(つつし)みて芳命を奉(うけたまは)る」といふ。

この部分も、突然女性から結婚しましょうと言われて「敬(つつし)みて芳命を奉(うけたまは)る」というのはあまりにも安直に過ぎる感がします。これもまたお互いに歌のやり取りをかわした後にこの言葉が来る方が納得しやすいのです。
しかし、旅人の創作では以下のようになっているのです。

時に日山の西に落ち、驪馬去(りばい)なむとす。遂に懐抱(くわいはう)を申(の)べ、因(よ)りて詠歌を贈りて曰はく

お互いに「結婚しましょう」「分かったよ」とやり取りをしたものの「日はすでに西の山に落ちようとしているので馬は帰ろうとしている」ので、その別れに際して「わが心の思いを述べて歌を贈ろう」ということで、互いの歌のやり取りが始まったとしているのです。
しかし、絶世の美女たちと歌のやり取りをして、沈み行く夕日に向かって馬に乗って去っていくというこの場面はなかなかにかっこいいのです。

なお、ここで日が暮れるのは「洛神賦」などでも同じなのですが、「洛神賦」ではまさにここから主人公は仙女に会いに行くことになるのです。しかし、旅人の「松浦河に遊ぶの序」ではあっさりと家に帰ってしまいます。
このあたりのねちっこさの違いが中国と日本の違いなのかもしれません。(続く)