私が好きな万葉歌(1) 旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群

高校生の頃だったか、大学生の頃だったか、確かその頃に一度万葉集を買い込んで読み始めたことがありました。しかし、あまりの難しさに全く歯が立たず投げ出してしまいました。
それでも、日々のあれこれの中でふと万葉の歌に出会うことがあり、その中にはしみじみと心の中に染み込んでくるものがありました。そこで、やはり万葉はなかなかにいいものだと思って再び昔買い込んだ万葉集を手に取ったりもするのですが、歯が立たないことには変わりはありませんでした。
しかし、歯が立たないことには変わりはないのですが、それでも「ああ、いいな」と思える歌は自分の中でも少しずつ増えていきました。
そして、職を退いて時間が出来たことで明日香の万葉文化館の講座に通うようになったことで、今まで全く歯が立たなかった万葉集を少しは囓れるようにはなりました。そして、いささかは囓れるようになると、今までは全く見過ごしていた歌にも目がいくようになり、「いいな」と思える歌はどんどん増えていくようになりました。

そこで、そう言う歌を自分なりの言葉で紹介していくのも楽しかろうと言うことで「私が好きな万葉歌」というコーナーを起ち上げてみました。
この手のものとしては、斎藤茂吉の「万葉秀歌」が有名ですが、当然の事ながらそんな立派なものになるはずもありません。
「万葉集を読む」のコーナーと同じく、それは勝手な解釈や妄想がふんだんに混じっったものなので、他人様に読んでもらうと言うよりは自分のための心覚えのようなものにしかなりません。
それでも、暇があれば目を通してやろうという方がいましたら、しばしお時間をいただければ幸いです。

旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群(たづむら) 〔巻9:1791〕 遣唐使随員の母

万葉の歌の中で好きな歌を上げろと言われればまず思い浮かぶのがこの歌です。ですから、いろいろな旅立ちを祝う場面で「言葉」を求められれば、いつもこの歌を拝借していました。

天翔る鶴

子供というものは常に旅立っていく存在です。
幼稚園や保育所から小学校へ、そして中学校、高校へと、いくつもの関門をくぐりぬけるように一つの場所から別の場所へと旅立っていきます。そして、やがては就職や結婚によって親のもとからも旅立っていきます。

その時に親が出来ることは「祈る」事だけです。
そして、それこそがもっとも正しい身の処し方なのです。
世の中には、己の力が続く限り、力が届く限りの範囲にまで出張っていって我が子を支えてやろうという人もいます。

子供からすればこの上もなく迷惑な話です。
しかし、自分のことを大切に思い、その幸多からん事を全身全霊で祈ってくれている人がいると確信できるならば、どれほど多くの困難に立ち向かうことが出来るでしょう。

人にとってもっとも美しい姿は祈る姿なのです。
それ故に、天翔る鶴の群れに祈りを捧げる母の姿こそはもっとも美しい人の姿の一つなのです。

それから、この歌には、それに先だって長歌も添えられています。

秋萩を 妻どふ鹿(か)こそ 独(ひと)り子(ご)に 子持てりといへ 鹿子(かこ)じもの 我(あ)が独り子の 草枕 旅にし行けば 竹玉(たかたま)を しじに貫(ぬ)き垂れ 斎瓮(いわいへ)に 木綿(ゆう)取り垂(し)でて 斎(いわ)ひつつ 我(あ)が思(おも)ふ我(あ)が子 ま幸(さき)くありこそ 〔巻9:1701〕

長歌というのは短歌と違って、よほどの教養がなければ詠めないものですから、この母親はよほどの知識人だったことが窺えます。

秋萩を妻にもとめる牡鹿は一人の子供を持つといいます、その鹿と同じように私にも一人の子供しかいません、とその母は歌い出します。
当時の遣唐使船の渡航成功率は50パーセント言われていました。行きと帰りを考えれば成功率は25パーセントという事になるので、遣唐使は4艘仕立てで送り出されました。つまりは、最低1艘だけは無事に帰ってくると言う計算だったのですから、そんな危険な旅へと一人子を送り出す母の心中はいかばかりだったでしょう。

ですから、彼女はありとあらゆる神に祈りを捧げます。
「竹玉(たかたま)を しじに貫(ぬ)き垂れ 斎瓮(いわいへ)に 木綿(ゆう)取り垂(し)でて 斎(いわ)ひつつ」とは、竹珠をたくさん貫き通し、神を祀る壷に木綿の幣をとりつけ垂らし、忌み慎みて心に念じているのですというのです。もちろん、何を念じているのかと言えば「我(あ)が思(おも)ふ我(あ)が子 ま幸(さき)くありこそ」なのです。

そして、母は最後に天翔る鶴の群れにも祈りを捧げたのです。

旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群

旅人の宿りせむ野に霜降らば吾が子羽ぐくめ天の鶴群
現代語訳:旅人が宿りする野に霜が降るようならば、愛しい我が子をその羽でつつんでください、天翔る鶴の群れたちよ