私が好きな万葉歌(2) 防人に行くは誰が夫と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず

防人に行くは誰が夫(せ)と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思(ものも)ひもせず 〔巻20:4425〕 防人の妻

戦前の日本で、召集令状が来て「入営」するときに書物を持ち込むことは基本的に禁止されていたようなのですが、幾つかの例外が「万葉集」だったという話を聞いたことがあります。真偽のほどは確かではありませんが、それでも戦前の日本の軍隊でも、兵隊が「万葉集」を所持してそれを読むことは許容されていたようです。

もちろん、その背景には大伴家持の「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ」などと言う歌がおさめられていたからでしょう。

大伴家持像

ただし、あまりにも有名なこの家持の歌は「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌一首、并せて短歌」という、およそ戦争などとは何の関係もない作品の中に読み込まれていることはそれほど知られていません。

「陸奥国に金を出す詔書を賀す歌」とは、「聖武天皇が大仏建立を計画したものの必要な金が用意できずに困っているときに陸奥の国から金が出た事を慶する歌」なのです。
それがいつの間にか、戦局悪化の中で玉砕報道をするときにバックで流れる音楽へと変わってしまったのです。

それからもう一つ、兵営に万葉集を持ち込むことが許容された背景に「防人の歌」が数多く所収されていることも指摘されています。
しかし、その防人の歌も雄々しい内容だけでなく、その中にはこの上もなく率直な人としての思いが読み込まれたものもあって、この「防人の妻」の歌などはその典型です。

奈良時代の防人は難波の津に集められたそうで、そこまでは経済的な余裕があれば家族同伴でくることも許されていたようです。そして、招集された防人たちはそこから船に乗せられ、家族と別れて九州に向かったのでした。
ですから、この歌はその難波の津で詠まれた歌なのかもしれません。もちろん、防人となってふるさとを旅立つときの歌かもしれません。

カタクリの花

ここには、残酷なまでに対照的な二つの世界が呈示されています。
片方には愛する夫が防人として旅立とうとして悲嘆にくれる女性であり、他方にはその「悲嘆」を他人事として「防人に行くは誰が夫」と問ふ女性(おそらく女性でしょう)です。

「愛」の反対語は「憎悪」ではなくて「無関心」だと言った人がいました。
その言葉を借りれば、ここには「防人」という言葉を織り目にした「愛」と「無関心」の鮮やかな二分法が存在しているのです。

そして、愛する夫を送り出さなければいけない女性は、その無関心を「物思(ものも)ひもせず」という言葉で問い詰めるのです。
しかし、それが厳しい糾弾にならないのは、彼女自身もまたそう問いかける女性の姿にうらやましさを感じていることを自覚しているからです。その自覚が「見るが羨しさ」という切ないまでの思いとしてあふれ出しています。

召集令状を配達する人が「召集令状をもってまいりました。おめでとうございます」と決まり文句で赤紙を手渡せば、受け取った方も「ご苦労さまでした」とこたえ、なかには「これでうちも肩身の狭い思いをしないですみます」と応じた時代でした。
そんな時代の軍隊でも許容されていた万葉集にこのような歌がおさめられていたのです。当時の軍部の人間はこの歌のことを知っていたのか、少しだけ意地悪な興味がわいてきます。

防人に行くは誰が夫(せ)と問ふ人を見るが羨(とも)しさ物思(ものも)ひもせず
現代語訳:防人に行くのは誰の愛しい人かと声をかけている女の何と羨ましい事よ、何の憂いもなく