コロナの感染爆発だけでも大変な事態なのに、そこに未だ先の見えない大雨被害が重なりと、まるで何か呪われているような気がします。
幸い、私の住まう場所は高台にある住宅地なので暴風には要注意なのですが(数年前の大阪を直撃した台風では酷い目にあいました)大雨にはそれほど心配はありません。
しかし、ニュースで見る被災地の様子には胸が痛みます。
何しろ、そこにコロナへの感染の恐怖が乗っかるのですから、その心中はいかばかりでしょうか。
「天は自らを助くるもののみを助く」という言葉があります。
一見すると自助努力を肯定する言葉のように見えますが、実は全く違う意味を持った言葉です。
この言葉はキリスト教の言葉ではなく、イギリスの思想家サミュエル・スマイルズの「自助論」に書かれている言葉です。
彼は政治というものは基本的には制度やシステムを作ることはできても、それに魂を入れるのは一人一人の市民の「覚悟」のようなものだと言っています。
ですから、突然強力な指導者が現れて、今ある状況を一気に解決してくれるようなことを期待するのは根本的に間違っているというのです。つまりは政治の力だけで今ある現状を打開できるなどと言うのは全く持って「横着」な考えだというのです。
大切なことは、そうやって自らが選んだ制度やシステムをしっかりと自らがチェックして、それが良かったのかどうか、もしも良くないのであればどうするのかを一人ひとりがしっかりと考え抜く「覚悟」を求めている言葉なのです。
今の惨状は疑いもなく私たちが長い年月をかけて選んできたことのなれの果てです。
もちろん、その過程で良かったことも少なくはないでしょう。おそらく、戦後に生まれて今60才を超えているような私たちの世代は、疑いもなく人類史上最も恵まれた世代であったことはまちがいありません。
しかし、今その選択の道筋が問われていることは間違いありません。
それはコロナだけでなく、ましてやオリンピックやパラリンピックをどうするかなどと言う「些細」な問題だけでなく、私たちが作りあげてきた制度やシステムをもう一度根っこから見直す必要があるこを突きつけているのでしょう。
そう言う大きな枠組みの中で個々の問題を考えていかないと、おそらくは本質的な解決には繋がらない弥縫策にとどまるしかないような気がします。
しかし、パラリンピックを予定通り開催し、そこに観客を入れたり、学校関連の参加を求めたりするなどと言うのはまさに「狂気」としか思えません。
結果はどうなるにしろ、この時点でそれらに関して議論している現状がまさに「狂気」としか思えないのです。
やはり、呪われているのでしょうか。
いつもPCオーディオのことしか書かない、例のものです。
長引く、大雨が心配ですね。私は、福岡県北九州市八幡西区出身で、遠賀川のすぐ近くで高校生まで、暮らしました。地元の母に聞きましたが、今回の長雨もなかなかのものだったようです。さて、私の母の感想は、昭和40年代も今も、梅雨の終わりの集中豪雨の時も、秋雨前線の豪雨の時の時も、特に変わったことがなく、同じように感じるようです。
振り返ってみれば、自分の中学、高校時代も雨の激しい時には、学校に(当たり前のように)行きませんでした。父母も(当たり前のように)仕事を休んでいました。
当然そのころから、交通機関の計画運休もありまして、当時の国鉄や西鉄は12時から17時まで全面運休です。みたいなことはやっていました。
これは、不謹慎で怒られるかもしれませんが、高校時代に、東日本のほうから転校生が来まして、集中豪雨ななか、自転車で高校に行こうとして、側溝に転落して亡くなりました。多くの同級生の素直な意見です。「こんな雨の中、学校に行こうなんてバカじゃないの」非常に不謹慎ですが、当時の本音の意見です。
本当は、誰かが、雨が降ったら、学校や仕事は行かなくても、福岡では、何のお咎めがない、どころか、やって来たら逆に叱られと誰かが、教えるべきでした。地元に育ったものには、常識だったので、当然、転校生もそんな常識はあると思って、誰も教えなかったんだと思います。結構、その転校生には、友達も多かったと思います。
天候が悪くなったら、高校では、みんな早退します。というかさせられます。その転校生も何度か、そんな場面に遭遇してると思います。が、やはり育ちの違いだったのかもしれません。その親は、さぞや悲嘆にくれたと、思います。
残念ですが、集中豪雨があるとことは、そんなものです。大雨の時の逃げ場所も決まっています。たいてい古い集落の集会場です。
しかし、北九州市八幡西区という場所は、人口が増えています。小倉の人口が減っているのとは、対照的です。信じられないような川の近くの昔の遊水地のような場所(私が子供頃、子供ながらにここは,危険と思っていました)に住宅が建っています。
全く不謹慎な感想ですが、自分の住んでいた地域には、たぶん1000年まえには、大きな集落がありました。いましめのため、過去、川から流れ来た大石が今も祭られ、しめ縄とほこらがあります。子供のころからそれを見、話を聞き育ちました。
今の、大雨の被害は、気候変動が原因ではなく、本当は、住んではいけない場所に住み、近隣の付き合いも減って、過去の教訓を、知らない住人が増えたことが大きな原因と思います。
人生70年で初めての大雨とかよく言いますが、たった70年です。私の育った場所は、1000年前には、大きな集落があり、おそらくそれ以前から、人が住んでいたと思われます。
PCオーディオとは関係ないですが、これが、今回の私の長雨に関する感覚です。
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次は、PCオーディオについて書きます。
これは一定その通りだと思います。私は大阪生まれの大阪育ちですが、海沿いにずらっと建っている住宅群を見るたびに、そこは住んでい行けない場所だろうといつも思ってしまいます。
なぜならば、その場所は間違いなく、いつか津波で壊滅するからです。数十年のスパンで考えれば確率は100パーセントです。
その意味で最近気になるのは平成の大合併などで昔の地名が消えていっていることです。その地名には災害の歴史などを刻んだものが多いと言われています。
そう言う貴重な記憶が地名とともに伝承されていたものが断ちきられることで、住んではいけないところに人が住むようになってしまいます。
ただし、そう言う面に加えてやはり気候変動の問題も無視は出来ないのではないかと思います。
私もこの問題に関してはかなり懐疑的だったのですが、最近はやはりどこかおかしくなってきていると感じざるを得ません。
おそらくそう言うことも含めて一人ひとりが真剣に向き合い、人任せではなくそれぞれが責任ある方向性を自分で持つ覚悟が大事なんでしょうね。