毛虫パーティー

我が家の裏の草地で毛虫が大発生したことがあります。
最初は「ザワザワ」という音がかすかにするので不思議に思っていたのですが、その「ザワザワ」が日を追うにつれて大きくなってくるので、こわ如何に、と思ってじっくりとのぞき込んでみると、草という草にびっしりと毛虫がついているではないですか。
「ザワザワ」という音は、その毛虫たちがいっせいに草を食べるときの音で、まるで蚕棚の風情です。
いやぁ、これじゃあと数日で草は丸坊主だな、と思いつつその場を離れました。
そして翌日、ワンコをつれて再びその草地を通りかかると、今度はいっせいにムクドリが飛び立ちました。それも尋常でない数のムクドリです。
ムクドリ
またまた、こわ如何に、と思ってその場にしばらく佇んでいると、上空で様子を見ていたムクドリたちが1羽、2羽と再び地上に舞い戻ってきます。やがて、先ほど飛び立ったムクドリたちのほぼ全てが地上に舞い降りてきたので、今度は彼らを驚かさないようにそっと近づいて様子を見てみると、誰も彼もが無心に毛虫をついばんでいます。
まさにムクドリたちにとっては降ってわいたような天の恵みであり、饗宴です。
その時私の頭の中に「毛虫パーティー」という言葉が横切りました。
ついでに「自然の摂理」とか「食物連鎖」などと言う言葉も点滅しながらその場を離れました。
さて、あれからどうなったのかと、翌日もワンコをつれて確認しにいきました。
もうムクドリの姿はありません。「ザワザワ」というかすかな音もしません。残っていたのは、丸坊主寸前の姿で風に揺れる草だけでした。
まさに「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」です。
いやぁ、すごいもんだ、と感嘆しつつその草地をのぞき込んだ時に、私の背中に戦慄が走りました。
なんと、あの「毛虫パーティー」を生き抜いたわずかな毛虫たちが何事もなかったように草を食んでいるのです。
私は呆然として、その毛虫たちを眺め続けました。
どうして彼らは「毛虫パーティー」を生き抜いたのでしょう。
他の毛虫と比べて、優れた能力があったのでしょうか。
他の毛虫と比べて、生き抜くために必死の努力をしたのでしょうか。
問うも愚か、答えはただ一つ、運がよかったに尽きます。おそらく、それ以上でもなければそれ以下でもありません。
そして、この世の中でもっとも理不尽で、もっとも気まぐれで、それでいて絶対的な力を持つ運というものの凄味をまざまざと見せつけられた気がしました。
人もまた同じ、運という絶対者の前では、能力や精進などというものは風の前の塵に同じです。
「毛虫パーティー」を生き抜いた毛虫たちは、その奇跡を誇ることもなく、ただ無心に草を食み続ける事で次の子孫を残すという己に課せられた使命を淡々とこなしています。そして、それこそが運という絶対者に微笑みかけられたものの使命なのでしょう。
そんな毛虫の姿は、トップランナーを自称する成功者達の人生訓よりもはるかに多くのことを教えてくれるような気がします。
もちろん、成功を勝ち取った人々が、その成功の要因として己の能力や精進を誇る気持ちは否定はしません。しかし、それも運という名の絶対者に微笑みかけてもらったからだという謙虚な思いを忘れてはいけないでしょう。
そして、成功者としてこの社会を牽引している人々の根底にそのような謙虚な思いと、その幸運によって課せられた使命に思いをいたす心があれば、この世の中も少しは暮らしやすくなるのではないでしょうか。
今年は、毛虫の大発生もなく、残念ながら「毛虫パーティー」は開催されなかったようです。

5 comments for “毛虫パーティー

  1. monk
    2010年9月19日 at 3:33 PM

    二十代の感覚でしたか、前も書いておられましたが、「努力すれば成功する」というのは明らかに間違いですよね。論理的にはその裏や逆、つまり、「努力しなければ成功しない」「成功したのならば、努力しているのだ」というのが正しいのだと思います。ここを誤解して、根性論精神論を振り回す人は、実はむしろ尊大な思い上がりなのではないでしょうか。

  2. 養氣閣
    2010年9月19日 at 9:38 PM

    こんな素晴らしい話を読むことができるとは!
    N響アワーを観ながらカキコしてます。

  3. eine Ausnahme
    2010年9月19日 at 10:53 PM

    いつも音源を拝聴したり、さまざまな情報を提供いただいたりして大変お世話になっております。
    今回のエッセイも興味深く読ませていただきました。改めて管理人の見識の高さとセンスの良さに感じ入りました。
    ただ、私の趣味を申し上げるのをお許しいただければ、筆者の主張が前面に出すぎていて、やや「分かり易過ぎる」ように感じます。
    ここは、あえて事実を客観的に述べるにとどめて、この話に含まれる「教訓」は読者に想像させる、という表現方法もあったのではないでしょうか?
    ひとは、「教えられたこと」ことより「自分で発見したこと」の方が心に残るものではないか、と思うのですが。。
    お気に障るようでしたら、お許しくださいませ。

  4. シューベルティアン
    2010年9月20日 at 5:21 PM

     毛虫を擬人的に見ているところが私には面白かったです。
     毛虫にも人間並みの信念があるかのように、筆者は見ておられる。こういう態度は非科学的とかなんとかいって馬鹿にされがちなものですが、わたしの個人的な感想では、とてもとても好ましいものです。
     こういった作者の生活観を率直に吐露した文章は、ただ科学的なばかりの文章に比べて、辛らつな批判にされされやすいものだろうと察しられます。でも、偉大な作曲家たちがそうであったように、オノレの道をひたすら行ってほしいものです。わたしはよみつづけますよ。

  5. PhiloSophia
    2010年10月8日 at 11:45 PM

    とても、面白かったです。 ( 少々複雑な心境にもなりましたが。。)
    同時に、「パーティー」を催した数だけ、「成功者」を生産することができるという
    虚構の、文字通りの虚しさも感じました。
    私たちは、何を大切にして生きれば、「毛虫」にならずにすむのでしょうか。
    「毛虫パーティー」のような世界にしてはいけませんよね。

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