町石道について~抜き取られた町石事件?(2)

抜き取ったのではなくて、作成時の事務的ミス

前回紹介した以外にも背面に銘文が刻まれている町石はあるのですが、煩雑になるので詳細にはふれずに町数だけ列挙しておきます。

  1. 奥の院側20町石→慈尊院側166町石
  2. 奥の院側21町石→慈尊院側41町石
  3. 奥の院側22町石→慈尊院側171町石
  4. 奥の院側24町石→慈尊院側42町石
  5. 奥の院側25町石→慈尊院側168町石
  6. 奥の院側26町石→慈尊院側170町石

データというのは単独で眺めていても何も語ってはくれないのですが、こうしてまとめてみると何かを語り出します。
つまり、「抜き取り事件」が起こったと疑われている町石は奥の院側の20町石から26町石の間に集中しています。そして、何故か23町石だけが「抜き取り事件」の疑惑を免れているのです。

「170町石」 背面に「廿六町左衛門尉大江為氏」と刻まれている

もしも、この「抜き取り疑惑」が権力絡みのどろどろとした人間劇によるものなら、どうしてこの20町から26町の間に集中しているのか説明するのは非常に困難です。
何故ならば、抜き取った方と抜き取られた方の力の上下関係が上手い具合に存在する確率はそれほど多いとは思えません。その多くない確率がこの20町から26町の間に連続する確率となると、それは累乗の関係になるので限りなくゼロに近づくはずです。

「42町石」 これも背面に「二十四町金剛仏子聖翁」と刻まれている

それよりは、この6つの町石の真ん中にある23町石だけが「抜き取り疑惑」を免れている事に注目すべきでしょう。
何故ならば、この奥の院側の23町石こそは、高野山の町石の中で一番最初に建てられた町石だと推測されているからです。

「奥の院側23町石」 「文永三年二月十五日」と刻まれている

ですから、この背面に銘文が刻まれている町石は「抜き取り」という人間劇を推測するよりは、単なる「事務上のミス」だと考えた方がスッキリするのではないでしょうか。

おそらく、高野山の町石は奥の院側の23町石から建てられたことは、刻まれた銘文からほぼ間違いはないと思われます。
そして、それ以後に申し込みがあったものについては、そこを起点に22町→24町→21町→25町のように割り振っていったのではないでしょうか。

「161町石」 背面に「四町二十町」と刻まれている

ところが、プロジェクトを開始して受付を始めて見ると、想像以上に申し込みが殺到したのではないでしょうか。そう言う中で、割り当てた町数がバッティングしてしまったので、バッティングした町数に関してはお願いしやすい方に変更をお願いしたのではないでしょうか。
そして、こういう事務手続き上のミスが起こった背景として、この町石が一カ所で一元的に管理して制作されたものではなかったと言うことが、その様なミステイクを引き起こした最大の要因ではないかと考えられます。

複数の場所で同時並行的に制作された町石

この点について、木下氏は、町石の原料となる花崗岩は全て兵庫県の御影付近から運ばれたと述べています。そして、原料となる石材を九度山の慈尊院にまで運び、そこに専門の石材加工の技能集団を住まわせて加工にあたったと推測しています。
しかし、町石の原料となる花崗岩が全て御影で産出する御影石だったという考えは、過去の研究において既に否定されていることを発見しました。

「石造物の石材研究」という極めてレアなシリーズの中にこの高野山町石を取り上げた書籍があることを発見して取り寄せました。
そこではさすがは石材の専門家だけあって、同じ花崗岩でもそこに含まれる長石や石英の色や形状によって産地が特定できるそうなのです。その分析によって、高野山の町石の産地が御影だけでなく、現在の京都府加茂町の当尾付近や、奈良県天理市の五ヶ谷付近からも運ばれていることを明らかにしています。

具体的には、鎌倉時代の原型が残るものの中で、御影付近の石が29%、当尾付近が63%、五ヶ谷付近が8%となっているそうで、奥の院側の町石にも御影付近の花崗岩と当尾付近の花崗岩の両方が使われていることが明らかになっています。

問題は、この当尾という地域で、ここは今も「石仏の里」と言われるほどに、石材加工に長けた技能集団が住んでいた地域なのです。
木下氏が慈尊院周辺に住まわせた技能集団と推測しているのも当尾の技能集団です。

今も石仏の里と言われる当尾

そうなると、当尾で切り出した石材をわざわざ慈尊院に運び、そこへわざわざ当尾から石工の集団が移り住んで加工したというのはどう考えても不自然です。
おそらく、当尾で切り出した石材に関しては当尾で加工して完成品を運んだと考えた方が自然なのです。
何しろ、そこには優れた技能集団が既に多数いるのですから、そこで加工したと考える方が自然ですし、原料としての石材よりは加工した完成品を運ぶ方が重量もかさも小さくなります。

今も多くの石仏が残る当尾の里

もちろん、当尾以外の御影や五ヶ谷などから切り出した石材は現地で加工する技能集団はいなかったと推測されていますから、おそらくは九度山で加工したと思われます。
しかし、当尾で切り出した石材も含めて、全て九度山で一元的に管理して作成したと言うことはあり得ないと思われます。

そうなると、僅か2~3年の間に何十という町石を幾つかの地域で分散して作成し、それを九度山に運んできて、そこから人力で山を担ぎ上げたという姿が浮かび上がってきます。
そのプロジェクトの本部にあたる部署は慈尊院に置かれていたと想像されるのですが、当時の通信事情を考えれば、その事務作業は繁雑であり、大変な困難を伴ったものと考えられます。

そして、そういう繁雑な事務作業の中で町数が「あちら(当尾)」と「こちら(九度山慈尊院)」でバッティングしたために、仕方なしに背面にもう一度違う町数を刻み込まざるを得なくなったのではないでしょうか。
ですから、この正面と背面に銘が刻まれた町石は一度建立したものを引き抜いたのではなくて、作成過程でバッティング、もしくは変更の必要に迫られて、もう一度背面を正面にして刻み直したと考えた方が自然なような気がするのです。

しかし、これだけではまだ「抜き取り疑惑」は完全に払拭されたとも思えないので、最後の一押しとして、この抜き取り疑惑をかけられている、そして同時にこのプロジェクトの立役者でもあった安達泰盛という人物について、もう一押し突っ込んで考えてみたいと思います。

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