Lili Kraus 再説(2)

以前に、ギーゼキングのソナタ全集を聞き終わって、こんな贅沢なことを書いたことがあります。
モーツァルト:ピアノソナタ全集・・・(P)ギーゼキング
「今日の贅沢な耳からすればもう少し愛想というか、ふくよかな華やぎというか、そういう感覚的な楽しみが少しはあってもいいのではないかと思う側面があることも事実です。」
しかし、Liliのモーツァルトには、ギーゼキングにはなかったモーツァルトらしいふくよかな華やぎや愛嬌が満ちあふれています。
当然、彼女はギーゼキングの録音は聴いていたはずです。そして、おそらくは「モーツアルトは燃え立つ炎だ」と信じていた彼女にとって、その演奏はあまり好ましくは思えなかったことも容易に想像できます。
だからと言って、彼女の演奏はアンチ・ギーゼキングで前時代的な、ロマン主義的に歪曲されたモーツァルトだと言うのではありません。聞いてみれば分かるとおり、彼女はいついかなる時も実にきちんと弾いています。譜面を見ながら聞けばすぐに分かることですが、スラーやスタッカートなどの有る無しなども実に正確に弾き分けています。
そして、何よりも響きがクリアでころころ転がるガラス玉のように素敵です。
そう言う意味では、ベースはギーゼキングとそれほど隔たってはいないのでしょうが、それでも、彼女のモーツァルトからはギーゼキングからは感じ取れなかった「幸福感」が満ちあふれています。
一例を挙げましょう。
あの有名なハ短調のソナタ。
以前、ユング君はこんな風に書きました。
「あまりにも有名な冒頭の主題がフォルテの最強音で演奏される時、私たちはいいようのないモーツァルトの怒りのようなものを感じ取ることができます。そしてその怒りのようなものは第2楽章の優しさに満ちた音楽をもってしても癒されることなく、地獄の底へと追い立てられるような第3楽章へとなだれ込んでいきます。」
しかし、Liliの録音からはその様に大仰なものではなくて、ユング君は少女の憂愁のようなものを感じ取ってしまいました。そして、その憂愁というのは、重い宿命や不幸などとは無縁のものであり、それは時として若さ故の幸福と表裏の関係にあることにも気づかされます。さらに、第2楽章の優しさはLiliの演奏では間違いなく「救い」となっています。ああ、なんという慈愛に満ちた演奏であることか!!
ハ短調ソナタをこんな風に演奏した人は他には思い当たりません。
「楽しくなければ、また何か表現したいものがなければ、ピアノを演奏することはできない」と言い続けてきたLiliならではのモーツァルトです。

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