ベルグルンドのシベリウス

 シベリウスの交響曲は人気の作品なので、有名な指揮者なら一度は全集をこしらえている人が多いです。しかし、2度作った人となると数えるほどでしょうし、それが3度となるとおそらくベルグルンドだけでしょう。
 彼は、70年代に手兵のボーンマス交響楽団と最初の全集を完成させています。お世辞にも上手いとは言えないオケですが、下手は下手なりにアツサを感じさせてくれる演奏で、よく言えばシベリウスがもっている土俗的な側面を浮き彫りにした演奏が展開されています。
 普通は同一指揮者による新しい全集がリリースされると古い方の全集は忘却されるのが一般的です。それが3度目の全集がリリ?スされたとなれば、最初の全集などは存在すら忘れ去られても不思議ではないはずですが、何故かこれはカタログに生き残っています。
 それは、これに続く全集には存在しないアツサをもっているために、時には聞いてみたくなるような魅力を持っているからでしょう。
 2回目の全集はヘルシンキフィルとのコンビで80年代に録音しています。
 さすがにヘルシンキフィルはボーンマスのような下手さはありません。アンサンブルはしっかりと磨かれていて、何よりもオケがよく鳴っています。
 これを聴くと70年代のボーンマスとの録音は過去の遺物になるはずだったのですが、何故かこういう行儀のよい演奏を聞いていると、時々、昔のじゃじゃ馬を思いだしてボーンマスのCDに手が伸びるから人間とは不思議なものです。
 3回目の全集はヨーロッパ室内管というバカウマの団体と90年代に録音しました。とにかくその音色の透明感にはウットリさせられますし、金管群もシルクの肌触りを思わせるような棘のない音色です。
 これは80年代のヘルシンキフィルとの作業で追い求めたものをより高い次元で完成させたもので、これを聞くとヘルシンキフィルとの録音には余り手が伸びなくなります。
 でも、人間とは不思議なもので、こういう完璧とも言えるような演奏を聞きながら、何故か棘だらけのボーンマスとの録音が忘れられないのです。
 洗練されればされるほど、それとは対極にある泥臭さに魅力を感じてしまうというのでは、演奏するサイドからいわせれば「ええかげんにしてくれ!」といいたくなるでしょう。


 人間とは不思議なものです。
 未完成の中にあっても常に完成を求め続け、完成の中に未完成を求め続けるといったのは誰だったのでしょうか?
 ベルグルンドのボーンマスとの録音にいつまでも心がひかれるのは、おそらくはともに発展途上にある両者が、その発展途上を意識しながらも、それぞれが持てるものをフルに発揮して実現しうる最上のものを完成させたからでしょう。
 もしもそれが、しょせんは発展途上であることを口実にそれなりの演奏で終始していたならば、ヘルシンキフィルとの全集がリリースされた段階で過去の遺物となっていたはずです。
 このことは多くのことを私たちに教えてくれます。
 最近はクラシック音楽業界も不況のために大家による再録音、再々録音などと言うことはすっかり影を潜めましたが、80年代ぐらいまではそういう企画がわんさかとありました。
 レコ芸などではそういう録音がリリースされる度に天まで持ち上げる批評が紙面を飾っているので、まだ初だったユング君などはその言葉を信じてせっせとCDを買ったものでした。そして胸躍らせてCDプレーヤーにセットするのですが、そのほとんどは「上手い」事は認めるのですが、どれもこれも胸に迫ってくるもののない演奏が大部分でした。
 手慣れた指揮と能力の高いオケによる演奏ですから瑕疵はほとんどありません。オケはそれなりによく鳴っていますし、アンサンブルも申し分はありません。楽曲の解釈も「楽譜に忠実」な隙のないものですからこれといって文句を付けたくなるようなところはありません。
 でも、それらを総合して聞こえてくる音楽は「つまらない」のです。
 ボーンマスのオケにとってシベリウスの交響曲を全曲録音するという営みは間違いなく「祝祭的出来事」であったはずです。
 しかるに有名指揮者と有名オケによる録音は、決められたスケジュールのなかで次々とこなされていく「仕事」の一環でしかあり得ません。はたして、その録音のなかで、両者がともに持てる力を発揮してその限界ギリギリまでに自らを追い込んだのかといわれれば、答えは明らかにノーです。
 音楽を演奏するという行為が「仕事」になったのでは、その営みがどれほど高いレベルでなされたとしても感動とは縁遠いものになるのではないでしょうか。
 少なくともボーンマスのオケからはそのようなルーティンワークの匂いはどこを探しても見つけだすことはできません。
 オケの技術は上がる一方です。
 でも、そんなに高い技術は音楽を演奏するために必ずしも必要ないのではないか?という思いが最近のユング君のなかで頭をもたげてきています。
 上手いけれども聞き手に感動をあたえない演奏や録音というのは間違いなく存在します。逆に、そこまでの上手さはないけれど、なぜか心に残る演奏や録音というものも間違いなく存在します。ということは、音楽演奏において「技術」というものは決定的な要因ではないと言うことです。
 もちろん「下手」では話にはなりませんが、「バカウマ」である必要な必ずしもないと言うことです。ならば、「上手い」レベルで維持しておいて、バカウマになるための労力は別のところに振り向けた方がいいのではないかと思ってしまいます。
 まあ、演奏するサイドからいえば「何をバカなことを言ってるんだ!」と思われるでしょうが、聴衆はコンサートや録音に演奏技術を聞きに行くんではなくてあくまでも音楽的感動を求めているのだと言う原点を振り返ってもらえば、それほどの暴論ではないような気がします。
 ちなみに、私の大好きなシベリウスの1番はベルグルンド&ボーンマスや渡辺暁雄&日本フィルというCDにどうしても手が伸びてしまいます。これよりも上手い演奏はいくらでもあるのに、不思議な話です。

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