ハイドン:交響曲全集

“ハイドン演奏の金字塔ともいうべき録音です。
ハイドンの交響曲をすべて聴こうと思えば、今まではドラティの古い録音しかなかったのですが、これがリリースされることによってドラティ盤はその歴史的使命を終了したと言い切れるでしょう。”

ハイドン:交響曲全集 アダム・フィッシャー&オーストロ・ハンガリアン・ハイドンO
このシリーズはご存知のように、NIMBUSが企画してリリースしていました。ところが、全集の完成を目前にして肝心のNIMBUSが倒産してしまいました。録音そのものはすべて終了していたのは不幸中の幸いだったのですが、それでもこの大事業が野ざらしで放置されてしまったことには代わりはありませんでした。そこで動いたのが日本のクラシック音楽関係者です。詳細は存じませんが、アリアCDがBRILLIANTのディレクターに接触をもって、この一連の録音の版権を買い取ってリリースすることを持ちかけたのです。途中から大手のショップもこの企画に加わり、おそらくはかなりの有利な条件を提示したものと思われますが、その結果としてこの偉業が無事に着地することになりました。おまけにNIMBUSが中途半端な形でリリースしてきたこのシリーズをドーンと全集という形で、さらに11000円という超廉価盤価格でリリースされるという「幸せ」もついてきたのです。


ただし、アマゾンのサイトを確認してみると、¥31,767 (税込)となっていますから、その後値上がりをしたのかもしれません。 さて、そう言う外回りの話はこれくらいにして、肝心の演奏の方ですが、これはもう月並みですが「素晴らしい」の一言に尽きます。この、「オーストロ・ハンガリアン・ハイドンオーケストラ」というのは聞き慣れない団体ですが、実はこの全集作成のために編成されたオーケストラです。その実態は、ウィーン・フィル、ウィーン響、ハンガリー国響、ブダペスト・フィルなどのメンバーによって構成されていて、はじめの頃はゲルハルト・ヘッツェルがコンマスをつとめていたといえば、その凄さが分かっていただけると思います。(ヘッツェルが事故で亡くなったのはかえすがえすも惜しいことでした)
ハイドンの音楽というのは楽譜通りきちんと演奏したってちっとも面白くありません。これはオケにとっても指揮者にとってもとても怖い話です。ですから、指揮者の多くはあまりコンサートにハイドンを取り上げたくないようです。それじゃ、きちんと演奏しただけでだめならどうするかです。一つの解はセルが示しています。もう一つの解はクレンペラーが示しています。セルはハイドンを精緻の極みとして再現しましたし、クレンペラーはベートーベンかと見間違うような巨大な構築物として再現しました。しかし、フィッシャーはこういう力業とは異なるもう一つの解を見事に提示して見せました。それは、ハイドンの作品に内包される人生への肯定感、生きる喜びをすべての演奏に通底させることです。ですから、どちらかといえば最晩年の一連のザロモンセットよりも初期・中期の作品の方が面白く聞けるように思えます。そして、その事は聞き手にとっては嬉しいことです。なぜならば、ザロモンセットならば、これに変わる優れた演奏はいくつも指摘することはできるのですが、初期・中期の作品となると取り得る選択肢が極端にすくなってしまうからです。そういう層の薄い作品において、このような生命力に満ちた高いレベルの演奏を提供してくれるというのは実に貴重なことだといわねばなりません。
誤解を招くかもしれませんが、この一連の録音を聞き通してみて、ハイドンの交響曲というのは一つ一つの作品を俎上に取り上げてあれこれ論議してもその本質は見えてこないと痛感しました。そうではなくて、彼は自分の全人生をかけて、交響曲というジャンルを一つの実験場として様々なトライをしてきたのですから、その総体を論議の対象にしなければ本質的なことは何も分からないということです。ですから、この全集の存在はきわめて貴重です。初期の、言ってみれば「お座敷芸」を思わせるような作品群から最晩年のコンサートホールに鳴り響く偉大なシンフォニー作品までを総体として俯瞰できるこの全集は、クラシック音楽ファンならば一度はチャレンジする価値がある録音だといえます。

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