仏像の様式を追う(1)~飛鳥仏

自分のための覚え書き

日本という国の根っこには何を持ってしても変わろうとしない「古層」が存在するようです。
政治学者の丸山真男は、それをバッハのシャコンヌにたとえて説明していました。

シャコンヌとは低声部に4つ、もしくは8つの和音を割り当てそれをひたすら繰り返し、その同じパターンを土台として上辺で即興的にメロディをつけていく形式です。
バッハの有名なシャコンヌでは、冒頭の4小節からなるテーマををもとに、全体で64の変奏が展開されます。

64にも及ぶ上辺の変奏がどれほど原型から遠く離れ、見方によっては全く原形を留めていないように見えても、低声部で執拗に鳴り響く冒頭のテーマが音楽全体を支配します。
丸山は、これを政治思想史にあてはめたのです。

上辺の政治形態や思想がどれほど姿を変えていっても、言葉の真の意味における「日本的」なものが、シャコンヌ形式における執拗に鳴りつつづける低声部のテーマのように社会全体を規定し続けるというのです。

ただし、ここで丸山が述べている「日本的」なものとは、「八紘一宇」とか「大東亜共栄圏」などと言う言葉を掲げていた時期に言いふらされた「日本的」なものとは全く違います。
当然の事ながら、その手の「日本的」なものに対するノスタルジアとして登場してきた「美しい日本」とも異なります。

そう言うある特定の「発情した時代」の上辺を飾ったような浅薄な思想ではなく、ほとんど意識されることもなく日本の社会の一番奥底で執拗に鳴り続ける「何もの」かです。

当然の事ながら、「日本人って和を持って貴しとする」だよね、みたいなレベルの話でもありません。
それもまた上辺に現れた一現象でしかありません。
おそらく、その古層に潜む「日本的」なものを言葉で表現するのは難しいと思います。どんな言葉を弄しても、それを言葉で規定した瞬間にヌルリと取り逃がしてしまうような代物です。

しかし、そのとらえるのが難しい「日本的」なものは、外部から取り入れられた「新しいもの」を変容させていく過程に最も特徴的に現れるような気がします。
その「新しいもの」は「異物」であるがゆえに最初は相性の悪い変奏なのですが、古層に潜む「日本的」なものは、低声部で鳴り響くシャコンヌのテーマのように、いつの間にかその変奏を自分の支配下に入れてしまうのです。

飛鳥仏の宝庫 法隆寺

そう考えてみると、「仏教」というのは外部から取り入れた最も重要な「異物」の一つかもしれません。
「蕃神」とされた「仏」が長い時間をかけて日本的な「仏」へと変容していく過程こそは、その「日本的」なものが大きな力を発揮した過程だったはずです。
そして、その変化をはっきりと形として刻み込んだのが「仏像」の変容だったのではないでしょうか。

3月末に退職をして時間の余裕が出来たことで、高野山の町石道を辿ったり、仏像をたずね歩くようになったのは、そう言う「日本的」なものを自分の目と頭、身体全体を使って感じとってみたかったからです。

ただし、それは思った以上に難しいことで、とりわけ仏像に関してはそれらを時系列に添って並べることが出来るだけの知識がなければ、変容を感じとるどころの話ではないことに気づきました。(_ _,)/~~ まいった
そして、そう言う基礎知識を得ようとしても、「私はこれを藤原と言われても信じたであろう」とか「飛鳥でなければ仏ではないと粋がっていた」などと言う記述に出会ったりすると途方に暮れてしまうのです。(;´・ω・)σ なにそれ・・・
さらに、「貞観仏」だの「天平仏」だの「定朝様式」だのという言葉が、当然の前提として語られると、途方に暮れた上にそこで座り込むしかないのです。..ρ(・ω`・、) イヂイヂ

以上、「参った三段活用」終わり。

ですから、ここからまとめていく内容はあくまでも自分のための覚え書きの域を出ません。
間違っても、丸山が生涯をかけて追い続けた「日本的」なものを追求しようなどと言う大それた考えは小指の先ほどもありません。

あくまでも、その変容を実感する入り口として、少なくとも仏像を時系列に並べて判断できるだけの基礎知識を得るための覚え書きです。

蕃神の受容

日本に仏教が伝来したのは、百済の聖明王が金銅の仏像一体、幡、経典などを伝えた538年という事になっていますが、異説もあります。確かなことは、6世紀半ばの欽明朝の時に朝鮮半島(百済)経由で伝わった「外来思想」だったことです。
そして、この「仏教」の受容を巡って崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間で争いが起こり(587年:丁未の乱)、物部氏が滅ぼされることで「仏教の受容」が確定したことになっています。

しかし、最近の考古学の成果では、排仏派とされる物部氏の邸宅跡から仏教関連の遺跡が確認されています。排仏派と言われてきた物部氏もまた仏教を受容していたのです。
そうなると、この蘇我氏と物部氏の争いは、「仏教」を口実にした朝廷内の権力争いであったことが明らかになります。

仏教は、5世紀には既に朝鮮半島から渡来してきた人々の間で信仰されていました。そして、その大陸伝来の「新しい思想」はゆっくりと、そして静かにその周辺の人々の間に広まっていたのです。
「日本的」なものの特徴として間違いなく指摘できるのは、外部から侵入してきた「異物」に対して、「免疫反応」のような振る舞いはしないと言うことです。
上辺は排仏派と言われて蘇我氏と争った物部氏でさえも仏教を受容していたという事実に、免疫反応のような拒否的振る舞いをみせない「日本的」なものの姿がちらりと垣間見る思いがするのです。

蕃神の像~飛鳥仏

飛鳥寺の釈迦如来座像(いわゆる「飛鳥大仏」)

政治的には丁未の乱(ていぴのらん)によって物部氏が滅ぼされることで、半官半民の「飛鳥寺」が作られ、そこに「釈迦如来座像」が祀られます。そのため、この「釈迦如来座像(いわゆる「飛鳥大仏」)」と呼ばれる仏像が「日本最古」の仏像と呼ばれます。
しかし、仏像は百済の聖明王が金銅の仏像一体を伝えたと記されているように、既に朝鮮半島経由で多くの像がもたらされていました。

ですから、この「釈迦如来座像(飛鳥大仏)」の「最古」は、正確に言えば「国産仏像」としての「最古」です。
日本書紀には渡来系の仏工である「鞍作鳥(くらつくりのとり)」によって制作されたと記されています。

残念ながら、この「飛鳥大仏」は1196年の火災によって大半は破損してしまい、ほとんど原形をとどめていません。一部の指や顔の上半分くらいをのぞけば、その大部分は破損後の鎌倉時代に補作されたものと言われています。
しかし、最近の研究で、大部分は飛鳥時代当初のものを残している可能性が指揮されています。
もしもこれが事実として確定すれば、これはウルトラ級の「国宝」と言うことになります。(現在は「擬古作」と言うことで重文指定)

法隆寺金堂の「釈迦三尊像」

日本国内で作られ始めた時期の仏像の姿をよく伝えているのが法隆寺金堂の「釈迦三尊像」です。
この三尊像は光背の背面に銘文が刻まれていて、それによると623年に「止利仏師」なる人物によって制作されたことになっています。
この「止利仏師」なる人物は、飛鳥大仏を製作したとされる「鞍作鳥」と同一人物かどうかは諸説があって確定していません。

この時代の仏像の特徴は厚みが少なくて正面から見ることしか考慮されていないことです。「正面観照性」というらしいです。それにしても、学者というのは普通の日本語で言えば簡単に理解できることでも難しく言うのが好きな人種です。
また、左右対称で、立像ではまっすぐに立っているので動きの少ないスタティックな印象を与えます。
そして、何よりも縦に細長いのが特徴です。

 

そのスタティックで細長い印象がよくあらわれているのが法隆寺に伝わる二つの観音像、「救世漢音」と「百済観音」です。
これらは金銅製だった飛鳥大仏や釈迦三尊像とは違って木彫の彫刻です。

夢殿に祀られている「救世観音」は長年にわたって「秘仏」として護られてきたので、保存状態が素晴らしくいいのに対して、「百済観音」の方は落ち着く場所もなく、どちらかと言えば粗雑に扱われてきたので剥落が激しいです。
それでも1000年をはるかに超える時を経て伝えられ護られてきたのは凄いことです。

そして、この飛鳥仏のもう一つの特徴が、長めの顔に切れ長の目、そして幽かに口元には笑みを浮かべている印象的な表情です。
この幽かな笑みがいわゆる「古拙の笑み」とか「アルカイックスマイル」と呼ばれるものです。

その様な特徴を持った仏像が、時代的に言えば、6世紀後半から7世紀中頃までの時期に作られたので、それらを一括して「飛鳥仏」と呼んでいるわけです。
そして、それらの仏像は朝鮮半島経由で渡来した仏像を「模倣」することによって制作されたもののようです。

その事は、この時代に渡来した仏像の姿をよくとどめている法隆寺のミニサイズ(高さ約30センチメートル)の金銅仏等を見るとよく分かります。

法隆寺伝来の小金銅仏

ですから、それの仏の姿は未だに「蕃神」としての仏の姿なのです。
そして、黄金に輝く金銅仏の蕃神の姿は当時の最新モードであり、古代の人々の心を捉えたことでしょう。

しかし、正直に言って、その姿にはどこか心にしっくりとフィットしない違和感があることも事実です。
その感覚がもしかしたら低声部の鳴り響くシャコンヌのテーマに馴染まない変奏だったからかもしれません。
もちろんフィットしないのは私だけで、「飛鳥でなければ仏ではない」という人もいることも事実です。

広隆寺「弥勒菩薩半跏思惟像」

なお、この時代の渡来仏の大物として特に有名なのが京都広隆寺の「弥勒菩薩半跏思惟像」です。
渡来仏の大部分が小さな金銅仏であるのに対して、これは木彫のかなり大きな(高さが約120センチメートル)仏です。

また、飛鳥期の渡来仏であるにもかかわらず、どこか白鳳時代の仏を代表する中宮寺の弥勒菩薩とにた感じがあります。
厚みの少ないスタイルは明らかに飛鳥仏の特徴を示してはいるのですすが、正面だけでなく側面から見られることは多少意識されています。また、何よりも右手をかすかに頬にあてるポーズに緩やかな動きが感じ取れます。

広隆寺「弥勒菩薩半跏思惟像」

さらに、この弥勒菩薩は材料として朝鮮半島では産しない楠が使用されているので、国内で作られた可能性も否定できなくなっています。

もしも、これが純粋な渡来仏ではなくて、国内で作られた仏だとすると、シャコンヌのテーマが上辺の変奏に影響を与え始めた第一歩を示すものかもしれません。

 

1000年を超える時が流れると、色々と分からないことばかりのようです。そして、その分からないことだらけゆえに飛鳥仏には他にない魅了があるのでしょう。

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