飛鳥仏から白鳳仏への変容
飛鳥仏はいまだ「蕃神」であった仏を「蕃神」であるがようにかたち取った仏像ではなかったかと思います。もちろん、それは私個人の感覚であるのですが、その姿は異国の神である「蕃神」そのもののように思えます。
その「蕃神」の姿が変容し始めるのが「白鳳仏」です。
その「飛鳥仏」から「白鳳仏」に変容していく過程を如実に表すのが中宮寺「半跏思惟像」です。
「伝如意輪観音」とされているのですが、この仏像が制作された時点ではその様な観音信仰は成立していませんから「勘定」があいません。(^^;
しかし、ある時代(おそらく鎌倉時代)において、その優美な姿に「如意輪観音」を感じとった人の気持ちは分かります。
如意輪観音と言えば、河内長野市(大阪)観心寺の「如意輪観音」が有名です。
おそらく、日本の仏像の中で最も官能的な仏でしょう。
そして、その様な官能性をこの仏の中に感じとったがゆえに、ある時期から「如意輪観音」とされたのでしょう。
ただし、その「官能性」は色気満開の歓心寺の観音とは異なり、「聖女」としての「官能性」です。
それは、ミケランジェロのピエタ像に通ずるような「聖なる官能性」です。
しかしながら、この仏の特徴は言うまでもなく「思惟」するスタイルにありますから、おそらくは「弥勒菩薩」でしょう。信仰的にもこの中宮寺を含む法隆寺圏では弥勒信仰が大きな位置を占めていましたから、まず間違いはないでしょう。
そして、同じ半跏思惟像である広隆寺の弥勒菩薩と較べてみれば、飛鳥から白鳳への変容がよく分かります。
何よりも、顔の表情が丸みを帯びて優しくなりました。
全体のプロポーションも厚みがまして、特に肩や胸などがふくよかになっています。このふくよかさが、飛鳥仏にはなかった「官能性」を与えています。
また、中心線が明確で左右対称の正面観照性を維持しているのは飛鳥仏の特徴なのですが、横から見ても不自然さを感じないように造形されているのは飛鳥から白鳳への変化を表しています。
さらに、口元の古拙な笑み、いわゆるアルカイックスマイルは飛鳥仏を思わせるのですが、この古拙と官能性が絶妙なバランスで融合することで、他にはない「聖性」をこの菩薩像に与えています。
そう言う意味で、広隆寺と中宮寺の半跏思惟像を較べてみれば、飛鳥と白鳳という2点を結ぶライン上で、広隆寺の半跏思惟像はより飛鳥に近く、中宮寺の半跏思惟像はより白鳳に近いと言えます。
飛鳥仏~白鳳仏の時代区分
それでは、このような変化は時代区分的に見ればいつ頃から起こるのでしょうか。
専門的に見れば細かい論議もあるのでしょうが、感覚的に言えば飛鳥仏から白鳳仏への分岐点は天武・持統朝と見ていいでしょう。
天皇が代替わりするたびに飛鳥の各地を都が転々としていた時代から、中国風の都として藤原京が造営された時期が分岐点と考えていいでしょう。
ですから、「飛鳥仏」の中心が法隆寺だとすれば「白鳳仏」の宝庫は薬師寺と言うことになります。
ちなみに、白鳳仏から天平仏の分岐点は平常遷都と考えていいでしょうから、「天平仏」の宝庫は東大寺という事になります。
ですから、このあたりの仏像の変容をザックリと概観したければ法隆寺→薬師寺→東大寺と回ればいいことになります。
ただし、「白鳳」という年後は実際に用いられなかったので、「白鳳仏」というネーミングは不適切だという専門家がいます。
そう言う人は飛鳥仏とか白鳳仏という言い方をやめて、飛鳥前期、飛鳥後期と言うべきだと主張するのですが広まってはいないようで、幸いなことです。(^^;
白鳳仏と言えば薬師寺
白鳳仏の特徴を最も素晴らしい形で残しているのが薬師寺の薬師三尊像でしょう。
特に、薬師如来の両脇を固める日光菩薩と月光菩薩の色香漂う官能性は、飛鳥仏の持つ抽象性と神秘性からは、はっきりと離れている事を誰の目にも明らかにします。
この菩薩像の色香がどこから来るのかと言えば、それは緩やかに身体をくねらせたしなやかな動きです。
首と腰を屈曲点として、顔と上半身、そして下半身の向きが変わっています。また、そのくねらせた腰もたっぷりとした肉付きでその官能性を際だたせています。
この緩やかに身体をくねらせた表現法を「三曲法」と言い、遠く莫高窟の菩薩像に起因しています。
三曲法による菩薩像の表現は初唐時代に流行したもので、莫高窟の数ある仏像の中でも最も美しいものです。
しかしながら、薬師寺の三尊像はその様な唐様式の模倣の域を超えて、菩薩はよりしなやかな動きを見せていますし、薬師如来には堂々たる威厳が満ちています。
遠い記憶で曖昧さが残るのですが、莫高窟を訪ねたときは唐様式の菩薩像や絵画には心底感心したのですが、如来像はほとんど記憶に残っていません。
それを思えば、この薬師寺の薬師如来の姿は美しくもあり、威厳にも満ちています。
人間の身体というものを徹底的に観察しながら、そこに一つの理想を盛り込み、その理想を完璧にモデリングする技術が確立しています。
特に、左肩から緩やかに流れる衣装の衣紋が、その下にある肉体のふくらみを完全に意識して仕上げているところなどは見事と言うしかありません。
また、法隆寺の釈迦三尊像と較べてみても、かつての大仏師、止利派の表現を完全に過去のものとし、全く新しい表現様式が生まれたことをはっきりと示しています。
仏が外国からの「蕃神」として渡来してからおよそ100年ほどの時を経て、日本人が素直に受け入れることが出来るような姿へと大きく変化したことには驚かされます。
その変化の背景には中国における仏像様式の変化があって、その変化に後押しされた部分もある事は事実です。
しかし、威厳に満ちた近づきがたいイメージから、どこか心の柔らかい部分にそっと寄り添ってくるような姿へと変化していった事は模倣の域を超えています。