一本桜の魅力(写真は4月12日に撮影したものです。)
いつの間にか桜と言えば「ソメイヨシノ」と言うことになってしまいました。確かに、「ソメイヨシノ」という品種は接ぎ木でしか増えないので遺伝的には全て同じです。ですから、生育している状況が同じならば一斉に花をつけて一斉に花が散ります。
これが遺伝的にばらつきがあれば、生育状況が同じであってもその個体差によって開花の時期にずれが生じます。しかし、「ソメイヨシノ」にはその様な「ずれ」は存在しないので、満開をむかえると植えた本数に見合うだけの豪華さを演出してくれます。
結果として、最近の桜の名所と言えばほとんどが「ソメイヨシノ」と言うことになってしまいました。
私が生まれ育った大阪南部の小さな村も昔から桜の名所として有名だったのですが、子どもの頃はかなり「ヤマザクラ」も混じっていました。しかし、いつの間にか「ソメイヨシノ」ばかりが植えられるようになり、「ヤマザクラ」は山の中で自生しているものだけになりました。
20年ほど前からは「桜祭り」などと称する「地域おこし」が行われるようになって、それこそ村を挙げて「ソメイヨシノ」が植樹されるようになりました。
しかし、桜を植樹してきた村の人たちには申し訳ないのですが、この10年ほどは桜のシーズンに里帰りをす事もなくなってしまいました。
父が亡くなり、母も亡くなり、田舎の家は空き家になってしまったこともあるのですが、そうやって村を埋め尽くすように咲いている「ソメイヨシノ」がどうしても好きになれなくなったのも大きな理由でした。
昔はそうではなかったのです。
その豪華に咲き誇る「ソメイヨシノ」の見事さに心奪われていたのですが、年を重ねるにつれて、その豪華さに人工的ないやらしさと鬱陶しさを感じるようになってきたのです。
そう言えば、亡くなった母は、そんなソメイヨシノを見下ろすように山のあちこちに咲いている「ヤマザクラ」の方が好きだと言っていました。
若い頃は不思議に思ったものですが、今はその事に頷く自分がいます。
そして、最近になって心惹かれるのは長い年月を経て己一人ですっくと立っている「桜の巨樹」、いわゆる「一本桜」です。
この村のお寺にも立派な「エドヒガン」の枝垂れ桜があります。
しかし、私が子どもの頃は代替わりをしたばかりで、樹齢30年ほどの2代目の桜でした。村中に咲く「ソメイヨシノ」と較べれば立派な桜ではあったのですが「一本桜」の貫禄にはほど遠い姿でした。(ただし50年の年月が経過して、今は樹齢80年ということで多少の貫録をそなえてきました。)
私がはじめて「一本桜」の凄さを教えられたのは醍醐寺の「枝垂れ桜」でした。
樹齢200年と言われるその枝垂れ桜は見る人を圧倒し沈黙させる力を持っていました。
満開の「ソメイヨシノ」は見る人を高揚させ喧噪を引き起こしますが、年を経た「一本桜」は見る人を高揚させ沈黙させます。
確かに、その両者は人の心をざわめかせるのですが、そのざわめきの質が真逆なのです。そして、この人を沈黙させる「心のざわめき」の正体を見定めたいと思ったのです。
ただし、そう言う「一本桜」を訪ねるというのはなかなかに大変です。
「ソメイヨシノ」と違って、それぞれの桜によって満開になる時期が微妙にずれるからです。
例えば、今回訪れた奈良の宇陀地方は数多くの「一本桜」があることで有名なのですが、それぞれの桜の開花時期は微妙にずれています。
ですから、1日や2日で効率的に見て回ろうと思っても、ある桜は満開をむかえていても別の桜はまだ蕾のままなのです。
気難しい「一本桜」になると、まさにその一本に出会うためだけにその地を訪れなければならないのです。
つまりは、「一本桜」というものは「効率的」という言葉とは真逆の位置に立っているのです。
しかし、それこそが「一本桜」の魅力です。
春は駆け足でやってきて、思わぬ雨と風であっという間に桜の季節は去っていきます。貴方に是非ともお会いしたいという思いがなければ出会えないのが「一本桜」なのです。
本郷の瀧桜(又兵衛桜)
NHKの大河ドラマのオープニングに使われてすっかり有名になった「一本桜」です。一本桜の多い宇陀地方でももっとも巨大な「一本桜」ですから混雑度も一番です。
人のいない夜明けの又兵衛桜を撮影しようと暗いうちに現地に到着すると、既に100人近いカメラマンがスタンバイをしていたという話もあるほどです。
私は平日に訪れたので車で出かけても割合スムーズに近づけて駐車スペースも見つけることができたのですが、休日だとかなり大変なことになるようです。
「又兵衛桜」という名称は、大坂夏の陣で戦死したとされている後藤又兵衛が実は生き延びていてこの地で僧となって晩年を過ごしたという伝承があり、その又兵衛が晩年を過ごした屋敷跡に咲いていることでこの名前が付けられたとのことです。
おそらく、この地方には「後藤」姓の方が何軒かあって、さらにはこの桜が咲いていたのがその何軒かあった後藤家の敷地内だったことから、こういう伝承が生まれたのでしょう。
しかし、この伝承には真実性が全くないことは明らかなので、道路の案内板では「本郷の瀧桜」の方が使われていました。私もこのような「怪しげな名称」をこの桜に押しつけるのはいかがかと思いますので、できれば今後は「又兵衛桜」よりは「本郷の瀧桜」の方で通用するようになればいいと思います。
それにしても巨大な「一本桜」です。
そして、何よりも驚かされるのは、醍醐寺の枝垂れ桜のような「庭園育ち」の桜とは全く違う「野育ち」の逞しさが溢れていることです。樹齢は300年と推定されているようですが「衰え」というようなものは全く感じられないので、これからもますます「威」を重ねていくことでしょう。
北向き地蔵桜
「本郷の瀧桜」のすぐ近くに「北向き地蔵」を祀った祠があるのですが、そこにもう一本見事な桜が咲いています。
地元ではその祠にちなんで「北向き地蔵桜」と呼ばれています。
年にもよるのですが、本郷の瀧桜と較べると開花時期が少し遅いようで、瀧桜が満開でもこちらはまだ蕾という年もあるようです。
ただでさえ、すぐ近くに「本郷の瀧桜」があって目立たないのに、そういう事情も重なるとますます目立たなくなっている桜です。
しかし、純粋にこの桜だけと向き合ってみれば、どこか日本の原風景を思い出させてくれるような静かなおもむきに包まれた桜です。ですから、瀧桜の喧噪が少しは鎮まった頃に、この桜に会いに来る人も増えているようです。
そして、桜は花が咲いているときだけが桜ではありません。花が散り、新緑を身に纏い始めた姿ももう一つの桜の魅力ですから、新緑の瀧桜と一緒に訪ねてみるのもいいかもしれません。
ただし、今年は瀧桜の開花が遅かったようで、わたしが訪れた4月12日には、ともに満開をむかえていました。
天益寺の枝垂れ桜
瀧桜から10分ほど歩いていくと天益寺があります。
このお寺は十数年前に不審火によって本堂などが焼失してしまい、現在は再建に向けて努力が積み重ねられているところなのですが、このお寺に瀧桜よりも年を経た樹齢350年と推定されている枝垂れ桜あります。
昔はこちらも「桜祭り」をやっていたようで、入り口のところに朽ち果てた「桜祭り」の看板が転がっていて痛々しい感じがしました。また、桜の手入れもあまりされていないようで、枝垂れ桜のまわりの木が野放図に伸びてきていていました。
桜は人の世話がなければなかなか育たない木なのでいささか心配になってしまいました。
本郷の瀧桜(又兵衛桜)へ
平日でも人は大変多いのですが、地元の人があちこちに臨時の駐車場を用意しているので困ることはありませんでした。ただし、土日の休日ともなると桜に近づくまでに渋滞ができてしまっていてかなりの待ち時間を覚悟する必要があるようです。
基本的には、こういう場所に行くときはできる限り速く家を出ると言うのが鉄則でしょう。
なお、瀧桜に関しては地元の方が保存活動に宛てるための協力金として100円を支払う形になっています。桜をできる限り多くの人に見てもらうためにかなりに出費が必要なことは見ていて分かりますから、気持ちよく支払いたいものです。
又、枝全体に花もミッシリとついているのであまり気づかないのですが、一つ一つの花は意外と小さいのです。
近鉄の榛原駅から室生口大野駅にかけては一本桜の見どころが多いです。「又兵衛桜」も素敵ですが、私が好きなのは仏隆寺の千年桜です。一度お出かけください。大野寺しだれ桜も数年前までは見事な花をつけていましたが、この1-2年は病気のため花の勢いが衰え、今年は寂しい限りでした。後藤又兵衛は真田丸で全国的な名前になりましたが、伝説では大坂夏の陣で真田幸村に敗北し、南に敗走する徳川家康を堺あたりで討ち取ったと言われています。
「仏隆寺の千年桜」は「本郷の瀧桜」が散ったころに満開を迎えますね。そういう意味では、この宇陀の一本桜の中でも一番気難しい桜だと思います。今年も瀧桜が満開の時は千年桜はようやく咲きはじめばかりだったので日を改めて訪れました。
ということで、今の流れから言って、大野寺の「小糸桜」、西光寺の「城之山桜」を紹介してから「千年桜」を紹介しようかと考えています。
まったく「同時性」のない内容で申し訳ないのですが、花の開花状況を伝えるのが目的のページではないのでまあいいでしょう…と開き直っています。(^^;