写真は4月18日に撮影したものです。
西行という人は本当につかみどころの難しい人物です。その背景には、彼の行動を正確に把握できるだけの記録がないことと、それ故に結果として彼が残した膨大な「歌」からその足跡と心の彷徨いを想像するしかないという事情があります。
ただし、西行は「天性の歌人」であり、「歌(大和歌)」に人生をかけた人でした。彼はまさに息をするかのように自然に己の心を31文字に託すことが出来た人でした。
「苦吟」という言葉は西行には似合いません。
それ故に、残された「歌」にはこのつかみ所のない男の飾らぬ姿が刻み込まれています。
西行は素直に「歌」を読み下しているために、この時代の「歌」にしては非常に意味を解しやすいという面を持っています。そして、そこに託された思いというものも時代を超えた普遍性があるので、現在の私たちが読んでも素直に理解ができ共感できる部分がたくさんあります。
出家から吉野へ
西行は23才で栄達を約束された地位を全て捨てて出家してしまいます。
この時の突然の出家を語るときに必ず紹介されるのが、藤原頼長の一文です。ちなみに、この藤原頼長は「悪左府」と称され、最後は保元の乱の首謀者として敗死した「魅力溢れる人物(^^;」なので、機会があればまた別の場所で取り上げたいものです。。
この一文を記したときの頼長は23才で内大臣に上りつめたエリート貴族でした。出家した西行が法華経の勧進のためにこの頼長を訪れた時のことを彼は記していて、最後に次のように西行のことを評しています。
「重代の勇士なるをもって法皇に仕ふ。俗時より心を仏道にいれ、家富み、年若く、心、愁ひ無くして、遂に以て遁世す。人、これを嘆美す。」
この文章の肝は、この若きエリート貴族が「家富み、年若く、心、愁ひ無く」生きてきた男が突然出家したことに驚いている事です。そして、その事を嘆美している「人」とは明らかに自分自身の事でもあったはずです。
特に注目したいのは「家富み」の言葉です。
これは普通の人が「西行の実家って金持ちよね」と言っているのとはわけが違うのです。このエリート貴族から見ても西行の家は「家富み」と映じたのですから大変なものです。
そして、西行は出家をしたと言っても、内大臣を務めるエリート貴族だけでなく、鳥羽・崇徳院を始めとした朝廷のトップ達と気楽に会いに行けるポジションにあったようなのです。逆に、出家することで「兵衛慰」という肩書きが取れたことで自由度が増したようなのです。
結果として、彼の実家である「佐藤家」にしても西行の存在は朝廷の枢要な人物と繋がる上で貴重なカードだったようで、彼は身なりは墨染めの貧しい身なりであってもお金に困ることは一切無かったようなのです。
いや、それどころか、その実家の財力を持ってすれば僧侶としての最高位である「大僧正」にだってなれたはずなのに、彼は生涯どこの寺院にも属さず、いかなる僧位・僧官をも求めずに漂泊の中で人生を終えたのです。
そして、それ故にと言うべきか、そう言う恵まれた環境をバックとして持っていたために、出家した後もそれほどスッキリと「浮き世」への未練が断ち切れたわけではなかったようなのです。
西行と言えばイメージとしてその生涯を漂泊の旅の中で過ごしたように思われています。
しかし、彼は裏切られた「待賢門院」への未練があったのか、出家前に親しくつき合っていた人たちへの未練があったのか、出家したばかりのころは京都のあちこちをうろうろと彷徨っていて、漂泊の歌人というイメージとはほど遠い生活をおくっています。
また、その後の漂泊の中にあっても事あるごとに彼は京に帰ってくるのです。
しかし、ある意味では、そう言うふがいない状態も含めて彼は素直に「歌」にしているのです。
世の中を捨てて捨て得ぬ心地して都離れぬ我が身なりけり
捨てたれど隠れて住まぬ人になればなほ世にあるに似たるなりけり
「捨てて捨て得ぬ心地して」とか「隠れて住まぬ人になれば」とか、ここまで素直に言われてしまうと、「それはそうでしょうな」としか言いようが無くなります。
吉野での西行
しかし、彼はついに「山林流浪の行」を決意して「吉野」に向かいます。それは「花に心をかけて詠ぜんがため」でした。
しかし、その「行」に彼は誰かが同行してくれると期待していた節があるのです。思わず、「あなた出家したんじゃないの」と言いたくなりますし、都を離れてその様な「行」をともにする暇人がいるはずもないので、彼は仕方なしに一人で「吉野」に向かいます。
誰かまた花を訪ねて吉野山こけふみわくる岩つたふらん
いろいろに解釈可能なのですが、前後の事情から考えれば「誰か花を訪ねて吉野に来てくれないかなぁ」という率直な心だと私は思います。そして、そう言う弱い部分も格好つけずにさらけ出せるところに西行の魅力があるように思います。
そして、彼はこの吉野のあちこちに庵を結んで「山林流浪の行」を行い、時には頑張って大峰修行にも二度ほどでかけたようです。ただし、その大峰修行では同行の山伏からいじめられて「泣いたり」しているのですが、そう言うことも隠さずにさらけ出しているのが西行のいいところです。
ただし、この移り気な男がどこか一カ所で思い定めて修行に励んだわけもなく、どうやら吉野と京を行ったり来たりしてたようなのです。
しかし、後の時代にこの西行を慕って芭蕉がこの吉野を訪れ、今は「奥千本」とよばれるこの地で「とくとく清水の句」を詠んだために、吉野の「西行庵」はこの「奥千本」と言うことで定着してしまいました。
露とくとく心みに浮世すゝがばや
西行の本歌は次の通りです。ただし、この「歌」が本当に西行のものかどうかは諸説あるそうです。
とくとくと落つる岩間の苔清水くみほすほどもなきすまひかな
今も西行庵から少し離れた場所に「とくとく清水」と呼ばれる水場が残っています。
ここまでお膳立てができれば「吉野×西行=奥千本」と言う数式は揺らぐことはありません。
しかし、誰か一緒に来てくれないかなぁと思いつつもやってきた「吉野」だったのですが、そこでの一人居の孤独は、やがて彼の中に孤独を愛する心を育て、結果として「歌」の風格を高めたと言われます。
西行ほどの男でも、こうして弱音を吐きながら、それでもその弱さから目を背けることなく一歩一歩前に進んでいったという事実は、私のような凡にとっては少しばかりの励ましと慰めになるような気がします。
吉野奥千本へ
奥千本の入り口になるのが「金峰神社」です。ですから、ロープーウェイの駅から歩いていくとこの入り口に達するまでに疲れ果ててしまいます。できれば、何らかの交通手段を使って神社の鳥居の前までは来たいものです。
平日で時期をずらせば車で来ることも可能ですから、金峰神社横の「義経隠れ堂」下の駐車場(奥千本無料駐車場)に止めるという方法もあります。
なおこの「義経隠れ堂」は義経捕縛の院宣が後白河法皇からだされたために、義経主従は静御前と別れてさらに山奥にある金峯神社で身を隠した場所だと言われています。蹴抜の塔(けのけのとう)とも呼ばれ、追手に囲まれた義経は塔の壁を蹴り破って宮滝方面に逃げたと伝えられています。
「金峰神社」からは緩やかな上りが続き、やがて分かれ道に来ます。ここはシーズン中は一方通行になっているので左には行かずまっすぐ行きます。このあたりからは大峯奥駈道の入り口にあたる場所なのでちょっとした登山道の雰囲気になりますので、運動靴程度の足ごしらえは必要でしょう。
なお、この奥千本はスギやヒノキへの植林が進み、さらに度重なる自然災害もあって桜の木の数は危機的状態に近づいています。
そこで、この数年にわたって「献木」という形で植林が進められています。
できれば公的機関の取り組みとして進められればいいなとは思うのですが、いろいろ難しい問題があるようです。
西行はブルックナーと同じく73歳で没したようですが、23歳で出家して50年間も
浪人の身だったわけですね。
ところで、オリンパスのE-M5 Mark2とMZD.17mmF1.8をお使いのようですね。
17mmF1.8も良いレンズですが、シグマのOEMなので寒色系です。
パナライカの15mm F1.7の方が色乗りが良く、乗り換えられることをオススメします。
別に写真がメインではないので写ればいいんですよ。(^^;
アドバイスありがとうございます。