写真は4月12日に撮影したものです。
大野寺から室生寺へ回ったのならば、是非とももう一カ所足を伸ばしたい「一本桜」があります。それが、大野寺の「小糸桜」の親桜と言われている西光寺の「城乃山桜」です。
しかし、ここまで足を伸ばす人は多くはありません。それはアクセスの悪さが原因しています。
既に「室生寺」でさえかなりアクセスの悪いお寺です。
長谷寺のあった地域ですらかつては「隠国の初瀬(こもりくのはせ)」と呼ばれていて、そこからさらに山深く分け入った場所に「室生寺」は作られています。
西光寺はその室生寺からさらに狭い山道を登っていったところにあるのです。観光バスなどは絶対に入ってこれない場所です。
そして、西光寺自身は小さな無住寺ですから、寺と言うよりは小さなお堂という感じです。ですから、「西光寺」には見るべきものは何もなく。ただそこに「桜」があるだけなのです。
おまけに、ナビに西光寺と入力しても出てきません。つまりは、徹底的にアクセスが悪いのです。
そこで、仕方がないので地図を頼りに室生寺を出発したのですが、その地図を見る限りではとんでもなく狭くて急な坂を上っていく雰囲気なのです。
しかし、その道はあまりにも狭くてあまりにも急坂で、果たして車でのぼっていってもいいものかどうか躊躇してしまうような道でした。
そこで、分からないことは「人に聞け」が原則ですから、入り口のカーブのところにある駐車場で車の整理をされていた方に尋ねてみました。
答えは「イエス」だったのですが、道が狭くて対抗できない場所も多いので注意してくださいと言うことでした。
そこで勇気を出してこの道を上っていったのですが、基本的にはこの上で住んでおられる方しか使わない道のようで、桜の時期であったにも関わらず、行き帰りで対面通行できなくてバックしたのは一度だけでした。
おそらく、室生寺の駐車場に車をおいて歩いていけば30分程度だと思うのですが、ひたすらの「上り」になるので、観光バスなどで桜を見に来られる方もここまでは来ないようです。
ただ、驚いたのは、西光寺の少し手前に臨時に駐車場が用意されていて、地元の方が管理と案内をしてくれていたことです。
そして、駐車料金を支払おうと思ったのですが、その方は「そんなものはもらっていません」と言って、逆にいろいろな資料やパンフレットを頂いてしまったのです。
そこには、自分たちの村の桜に対する深い愛情が感じられて、その愛情があるがゆえに、無住寺の西光寺の庭に350年も「城乃山桜」が咲き続けることができたのだと納得した次第です。
それにしても、惚れ惚れとするほどに見事な一本桜です。
大野寺の小糸桜の親桜と言われているのですが、こちらの方は見事なまでの野育ちの桜です。
桜という木は人の世話を必要とします。しかし、人の世話で持たせることができる寿命は50年だそうです。
その後は、どんなに頑張って世話をしても、どこまで生きるかは桜次第と言うことです。そして、適切な世話と桜自身の生命力があれば、このような野育ちの状態でも350年の寿命を得るのです。
逆に、庭園に植えられて専門の庭師がどれほど手をかけても、桜自身に生きる力が失せてしまえばそこで終わってしまいます。
この西光寺の「城之山桜」は未だ樹勢は盛んで衰えは感じません。伸びた枝を支えるつっかい棒も僅か2本だけです。
そのためか、同じ野育ちの桜でも、あの宝蔵寺の枝垂れ桜ほどには奇怪な姿にはなっていません。
もちろん、主幹にはそれなりに瘤もでき枝も曲がりくねってはいるのですが、全体の立ち姿はどこかスッキリとしいて、どこか野にある貴人の姿を彷彿とさせます。
その品の良さがどこから来るのかとさらにじっと眺めてみれば、それは立ち姿だけでなく、身にまとう花の繊細さも大きな役割を果たしていることに気づきます。
そして、そこであらためて、これが「小糸桜」の親桜であることに思い当たるのです。
色は小糸桜と較べればやや濃いめのピンクなのですが、地元の人に聞いてみると、この色が少しずつ薄くなっていって散る間際にはかなり白っぽくなるのだそうです。
つまりは、今日この時が、「城之山桜」がもっとも美しい姿を見せているというのです。
しかし、それにもかかわらず、あの大野寺や本郷の瀧桜周辺の賑わいが嘘のような静けさです。
臨時の駐車場に止めている車は数台で、室生寺から黙々と徒歩で上がってくる方も多くはありません。しかし、この桜には間違いなく人の心を高揚させて「沈黙」させる力が内包されています。
静けさの中で誰もが沈黙を守る中で、静かに咲き誇る山里の一本桜です。
西光寺の城之山桜へ
室生寺まではトンネルも開通して随分と便利になりましたが、それでも室生寺から西光寺までのアクセスの悪さは今も全く変わりません。