写真は6月13日に撮影したものです
大阪府岸和田市にある「蜻蛉池公園」に久しぶりに行ってきました。
かなり以前(おそらく20年以上前)に一度行ったことがあるのですが、その時は池と広場があるだけの殺風景な場所でした。それがどういう経緯でどうなったのかは分かりませんが、今は周りを一周するだけでも大変なほどの広大な公園に変身していました。そして、その公園の中にはバラ園や紫陽花園なども整備され、さらには子供のための遊具やテニスコートや球技場まで揃っているのです。
何十年もこのすぐそばを通勤で通っていたのに(外環状線)、全く知らなかったという事実に我ながら呆然たる思いになりました。まさに「忙しい」とは「心が亡ぶ」です。
梅雨入りと同時にとてもいい天気に恵まれているので、この数日は毎日夕日を見に行っています。家のすぐそばは大阪湾の方に開けていて、生駒山から阿倍野ハルカス、北摂の山々から六甲の山まで見渡せます。その西の空に綺麗な夕日が沈んでいくのですが、毎日異なった表情で空を染めていく景色にほとんど心を向けていなかった日々に、これもまた呆然たる思いになっています。
40年近く必死で働いてきたことに何の後悔もないのですが、それでも随分たくさんのものを犠牲にしてきたことも認めなければいけないようです。
久しぶりに足を運んだ「蜻蛉池公園」の「紫陽花公園」は見頃をむかえていました。
入園料は無料なのですが駐車料金が620円というのは高いなと思ったのですが、それは「蜻蛉池公園」のイメージが昔のままだったからです。これだけ立派な施設に生まれ変わっているならば、入園料込みで620円と思えば妥当なラインでしょうか。
蜻蛉池公園には外環状線から入ったので、一番手近な第1駐車場に車を止めたのですが、これだと階段を上ったうえに紫陽花園には裏から入っていくことになります。
今回のように「紫陽花園」が目的ならば、ここは通り過ぎて第2駐車場に車を止めた方がよかったようです。
しかし、裏から入っていくと真っ先に斜面に植えられた紫陽花の群落に出会います。公園の外周道路から小さな小道を下っていくとこの群落と出会えるので、それはそれで悪くなかったのかもしれません。
この群落の前には小さな東屋があるので、そこでゆっくりと斜面の紫陽花を眺めるのはいい気分です。
この「腰を下ろしてゆっくり眺める」というのがどれほど贅沢な事なのかも最近になって知るようになりました。せわしく働いていたときは、この「腰を下ろしてゆっくり眺める」と言うことが気分的になかなか出来なくて、たとえ「腰を下ろし」ても「ゆっくり眺める」気分に離れず、あわただしく次の場所へと移動していたものです。
こう言うのを世間では「貧乏性」というのでしょうが、本当の「貧乏」とはこのように心の中に巣くっているのかもしれません。
そう言えば、兼好先生は衣食住に薬を加えた4つが満たされていれば「富」、満たされていなければ「貧」、そして、それ以上のことを求めるのを「奢り」と断じていました。
咲き誇る桜や藤の花、そして雨に濡れた紫陽花の花を眺めていても一銭の儲けも生み出しませんが、餓えず、寒からず、風雨に侵されずして、閑かに過すを楽しびとすです。
ただ少し残念なのは、この斜面の紫陽花には燦々と日が降りそそいでいることです。紫陽花には太陽が似合わないだけでなく、可哀想なことに日焼けして花の色が褪せてしまっています。
1度日焼けした紫陽花は二度ともとには戻りませんから、遠目に眺めていれば美しく見えても、近くに寄ってみるとかなり可哀想な状態になってるものが少なくありません。
そして、この斜面の群落から道を辿っていくと、色々な品種の紫陽花が植えられています。
こちらは木の陰に餓えられていたり、木の陰でない場所では黒い布をかけたりして日焼けをふせいでいます。
人によって好みは違うのでしょうが、群落を作っている紫陽花よりは、木の下に咲いている可憐なガクアジサイの方が好ましく思えます。その小さな派に近寄ってみれば、どんな宝石で彩られたブローチよりも美しいと思うのですが、どんあものでしょうか?
そんな色々な品種の紫陽花が咲いている道を辿っていくと最後に「紫陽花園」の入り口のゲートにたどり着きました。
ここではじめて逆方向に道を辿ってきたことに気づいたのですが、それもまたどうでもいいことです。
この紫陽花園の前には広い芝生の広場が広がっていて、何故か小学生くらいの男の子が走り回っていた。
平日だったので気にならないわけではなかったが、それぞれの家族にはそれぞれの事情もあるだろうから、それもまたどうでもいいことです。
蜻蛉池公園へ
駐車場は3か所ありますが、アジサイ園やバラ園が目的の時は「第2駐車場」に車を停めるのが便利です。