矢立をこえると後は大門まで基本的に上り道が続く。しかし、登山道のようにひたすら上りと言うことはなく、少し登っては平坦な道となりまた登るという繰り返しである。
既に15キロ程度歩いてきた「へたれた足」にはこれが助かる。そして、こういう道の付け方が、古くからの参詣道と頂上を目指すためだけに作られた登山道との違いであろう。
さらに、そこに目印としての「町石」の功徳が重なる。
上りになると歩幅はほぼ50センチ程度になるようで、1から200まで歩数を数えて上を見上げると次の町石が確認できる。きつい上りが続くと、残りが「○○町石」なんてな事は考えられなくなってきて、ひたすら次の町石だけを目標に足を運ぶことになる。
その時に100メートル先に次の目標があるというのは実によくできたシステムである。
矢立を過ぎるとすぐに「六地蔵」があらわれる。
この国に仏教が伝来したときに真っ先に定着したのが「薬師如来」と「地蔵菩薩」だと言われている。
「薬師如来」は病から衆生を救う仏であるから当然である。
「地蔵菩薩」は浄土へと人々を導く仏として定着していった。特に「六地蔵」は人が死んだ後におちいる「六道」に一人ずつ存在して苦しみから救ってくれる仏とされた。そして、この信仰が次第に現世化して、旅人の安全を守る仏として道野辺に祀られるようになっていった。
だから、「六地蔵」は彼岸と此岸の境である墓場だけでなく、旅人の安全を守る仏として村外れや分岐点などにも祀られるようになっていった。
矢立の六地蔵も町石道の分岐点と言うことで祀られるようになったのであろう。
この六地蔵を左手にみながら進んでいくと、次第に上りがきつくなってくる。
そして、「55町石」をこえると「袈裟掛け石」がある。弘法大師がこの岩に袈裟をかけたと伝えられていて、ここが高野山の清浄結界となると「説明看板」には書かれていた。また、この岩の隙間をくぐり抜けると長生きが出来ると言い伝えられているので、そこにはたくさんの人がくぐった跡がはっきり残っていた。
さらに、「54町石」をこえると「押上石」がある。
こちらは、弘法大師の母親が先ほどの結界をこえて高野山に入ろうとしたときににわかに雷鳴が鳴り響き、大師がとっさにこの岩を持ち上げて母を守ったと伝えられている。
それにしても、この「女人禁制」というのは不思議なシステムで、仏教や神道などの教義にあたる部分をいくらほじくり返してみても根拠となるものが出てこない。それどころか、道元などは「女人禁制」というシステムを「日本国にひとつのわらひごとあり。いはゆる或は結界の地と称じ、あるいは大乗の道場と称じて、比丘尼・女人等を来入せしめず。邪風ひさしく伝はれて、人わきまふることなし。」と明確に批判している。
ところが、この道元が永平寺を開くときには「女人禁制」を持ち出すのである。
転向と言えば転向なのだが、おそらくは「理」としては「わらうべき邪風」であっても、現実に一つの教団を率いて運営していく上では男女がともに暮らすというのはトラブルが多かったのであろう。そうとしか考えられない。
そして事情は空海とても同じだったであろう。
しかし、「いやぁ、女の子が来ちゃうと修行にならないどころか、男女関係のトラブル続きでやってられないから、女の子は来ちゃ駄目って事にしたのよ」と正直に打ち明けるわけにもいかかったであろう。そこで、自分の母親を持ち出してきてこのシステムの正当化を図ったわけである。
ただ面白いと思うのは、こういう説話は高野聖が弘法大師の偉さを世に広めるために作りあげたお話だと思うのだが、そこには明らかに「芸能」の端緒が認められる事である。つまりは「お話」としてはよくできていると言うことである。
聖たちは日本各地を訪れて弘法大師への信仰を広げ、勧進を募ったのだが、そのためには人を集めなければいけない。生半可な「芸」では見向きもされなかったであろうから、それこそ日々鍛錬して「お話」に磨きをかけたはずである。
そして、そうした磨きをかけた「芸」を楽しみにする人たちもいたことであろう。
そんな愚にもつかないことを考えているうちに、町石道は上りと平坦を繰り返しながら、やがて高野山道路と交差する。(41町石)
左右を注意して車道を横切って、さらに一頑張りすると展望台にたどり着く。(40町石)
展望台からは紀ノ川方面の飯盛山や竜門岳が遠望できる。紀ノ川から見上げると「紀州富士」とも呼ばれる龍門山も高野山側からみると印象がまったく違うのが面白い。
なお、39町石から37町石までは車道沿いにあるとのことなので、展望台を過ぎると次は36町石があらわれる。ここでももう一度高野山道路とニアミスするのだが、今度が横断はしないで車道に沿った道を右手にとって下っていく。なので、ここからは常に頭の上を車道が通ることになり、頭の上からはひっきりなしに車の音が聞こえてくるので至って気分がよくない。
気分はよくないが、ここから町石道はほぼ平坦な道が続くようになるのでありがたい。
当然、車道の方は大門を目指してどんどんのぼっていくので、少しずつ町石道と車道の間隔が空いてくる。やがて、車の音も少しずつ気にならなくなってくるので、まあいいかという感じにもなってくる。
やがて、35町石あたりに来るとマムシグサがたくさん登場する。今までも、時々姿は見せていたのだが、このあたりはちょっとした「群落」という感じである。
また、おそらく「フタリシズカ」だと思うのだが、これもたくさん生えている。
体力的にはかなりいっぱいいっぱいの感じなのでしゃがみ込んで写真を撮るのは大変なのだが、頑張ってみた。
町石の数を確認しながら坦々とした杉林の中を歩いていると、いよいよカウントダウンという感じになってくる。
山腹を巻きながらほぼ平坦に続いていた道は「鏡石」をこえると沢筋にでる。27町石のあたりである。
なお、鏡石とは表面が鏡のように平らだと説明されているのだが、どう見てもただの石である。また、この石の角に座って真言を唱えると願いが叶うとのことなのだが、すぐに真言が唱えられる人ってどれくらいいるのだろう。
嘘かほんとか知らないが、「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」というのがすべての災難が消滅する最強の真言らしいです。(^^;
そして、このあとは沢沿いにだらだらとした上りの道が続く。時々小さな流れを横切るのだが、よく整備された木製の橋が架けられているので実に歩きやすく、限界が近い足にとっては大助かりである。
そして、最後の最後、12町石をこえると急な上りが待っている。山歩きにとって、沢筋を辿ってくればこれは「定石」なので仕方がない。
おそらく、この上りは町石道全行程の中でもっとも急登である。
しかし、大門は7町石なので残りは約500メートルである。
この急登が先の見えない途中にあるとかなりへこたれるが、残り5町石というカウントダウンの中ならば、気力だけではい上がることは可能である。このあたりの道の作り方が実によくできていると感心させられる。
そして、頭上から再び車の音が聞こえてくるようになると、そこで急な上りも終わり大門の前の車道に合流して実質的なゴールと言うことになる。
なお、町石道はこのあと壇上伽藍の根本大塔まで続いているので、大門で一休みしてから残されたコースを消費する。
今や高野山は欧米からの観光客にとっては人気スポットなので、そうやって町中を歩いていると日本人よりも彼らの方が多いのではないかと思うほどである。
そう言えば、この町石道を歩いているときも出会ったのは外国人の方が多かった。
昔の高野山と言えば年寄りがたまにお参りに行くくらいで、土日でも結構閑散とした場所だったので、変われば変わるものだと感心しながらゴールである根本大塔到着がちょうど午後4時であった。
疲れた・・・。
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