町石道について~十方施主と十方檀那

一切衆生之助成と言う願い

ここまで、町石道の施主となった幕府や朝廷などの有力者についてみてきました。そして、町石プロジェクトはそのような有力者の支援によって完成したことは間違いありません。
しかし、このプロジェクトの発案者である「覚きょう」は、その建立願文の中で次のように述べています。

「自慈尊之院辺、迄廟檀之場畔、当干羊腸之険路、欲創建駄都之妙躰也」

この手の文章はよく分からないのですが(^^;、おそらくは慈尊院から奥の院までは曲がりくねった険しい道が続くので、道しるべとしての卒塔都を建てたいというような意味でしょうか。

「貧道之身艱難諧協覃願符之趣争耐地忍只乎、只以一切衆生之助成、将立二百余本之基趾」

これもいまいちよく分からないところもあるのですが、つまりはそう言う思いはあっても「貧道之身」なので「一切衆生」の助けをもって二百余本の卒都婆を立てたい、という感じでしょうか。
「一切衆生」、つまりは、出来る限り多くの人の助けで彼は卒塔婆を立てたいと考えたようなのです。

しかしながら、一基で数億円はかかるような町石を、慈尊院から奥の院に至る道筋に200基以上も立てるには有力者の助けが必要なことは、覚きょうも十分に理解していました。
ですから、この願文の最後のところで次のようにも書いているのです。

「太上天皇御願円満、将軍大王寿域無窮、聖朝安穏四海太平、十方施主二世快楽乎哉」

「十方施主二世快楽」とは全ての人のこの世と次の世の幸せを願うという意味になるのでしょうが、それは「太上天皇御願円満、将軍大王寿域無窮」を祈り、結果として「聖朝安穏四海太平」となる後に位置づけられているのです。

しかし、だからといって「覚きょう」たちは「一切衆生之助成」と言うことを諦めたわけではありません。
それが、「十方施主」「十方檀那」と刻まれた町石です。

30町石 「十方施主」と刻まれています

「十方施主」「十方檀那」が6基というのは少ないのか?

慈尊院から根本大塔を経て奥の院に至る道筋に建てられた200基を超える町石の中に、「十方施主」「十方檀那」と刻まれているのは6基です。

仏教では東・南・西・北を四方といい、これに上・下を加えて六方といいます。これに、東南西北の各間の四維(しい→東南/西南/西北/東北)を加えると十方となります。
つまり、十方(じっぽう)とは全ての方角と言うことになるので、十方世界で全ての世界と言う意味になります。

ですから、「十方施主」「十方檀那」とは、この世界のありとあらゆる人の勧進によって建てられた町石であることを意味します。
高野山町石の中で、この「十方施主」「十方檀那」と刻まれているものこそが、覚きょうが願文の中で記した「一切衆生之助成」をもって立てられたものだと言えるのです。

そして、この町石は「162町石」「125町石」「123町石」「122町石」「121町石」「30町石」の6基存在します。

125町石

問題は、この6基という数が多いのか少ないのかです。

普通に考えれば、慈尊院から根本大塔まで180基、根本大塔から奥の院まで36基、その他いくつかの里石や道標なども建てられていますから、この町石プロジェクト全体で建立された石像物は220基を超えます。その中で、「十方施主」「十方檀那」と刻まれた町石は6基ですから、全体に占める割合は3%にも達しません。
単純にこの数値を見れば、「只以一切衆生之助成」と言ったわりには、結局は有力者頼みで出来上がったプロジェクトだと言われても仕方がないでしょう。

123町石

しかし、「十方施主」「十方檀那」と刻まれた6基の町石には数だけでは割りきれない問題が内包されています。
それは、このプロジェクトは1265年から1285年までの20年をかけて完成したのですが、その進捗状況に関わる問題です。

火災などによって破損し、後世に再建された町石は、奥の院側ではおよそ半分、慈尊院側で2割程度に達します。そして、火災などを免れて、鎌倉時代の原型がそのまま残されている町石の中でも建立時期が刻まれているのは、慈尊院側では約3割(52基)、奥の院側でも約4割(7基)にとどまります。

122町石

ですから、町石に刻まれた建立時期は町石プロジェクト全体の進捗状況の全てをつくすわけではありません。
しかし部分集合の特性と全体集合の特性が大きく食い違うことも考えにくいので、この残されたデータは町石プロジェクトの進捗状況を一定程度は反映しているはずです。

まず、奥の院側で見ると、1266年から1268年の間に集中しています。つまりは、奥の院側については3年ほどの間に集中して建立されたと考えられるのです。
それに対して、慈尊院側は1266年から始まるのは奥の院側と同じなのですが、もっとも遅いものは1281年となっています。しかしながら、その大部分は「文永」の年号が記されていて、それ以外では「弘安4年」と記されているいるものが1基(32町石)あるだけです。

121町石

「文永」は1264年から1275年ですから、可能性としては慈尊院側も1266年から1275年までの9年間でほぼ全ての町石が建立された可能性が考えられるのです。
にも関わらず、プロジェクト全体は1285年までの20年間という時間を要しているのです。

おそらく、有力者の中にはもう1基余分に寄進してもいいという人は何人もいたと想像できます。だとすれば、1285年ではなくて、1275年の時点でプロジェクトを完了させて落慶法要をすることも可能だったと思われるのです。
もちろん、建立時期が刻まれていないその他の町石が「文永」以外の時期に建立された可能性は否定できないのですが、統計学的な常識から考えて、それらもほぼ大部分が「文永」年間に建立されたと考える方が自然なように思われます。

そうなると、覚きょうや安達泰盛たちは何にこだわって10年以上も時間を引き延ばしたのでしょうか。
そこで、浮かび上がってくるのが「十方施主」「十方檀那」と刻まれた6基の町石なのです。

ここからは全くの想像の域を出ません。
想像の域を出ませんが、おそらく覚きょうたちは最初の「願文」に記した「只以一切衆生之助成」という言葉を目に見える形で残したかったのではないかと考えるのです。
そして、それは有力者を中心に勧進を募ったと思われる安達泰盛も同じ考えではなかったかと思うのですが、それはまた別の項で述べます。

おそらく、覚きょうの手足となって多くの高野聖たちは国中に散らばり、「一紙半銭」と言われる勧進を集めて回ったものと思われます。
この「一紙半銭」とはごく僅かな寄進のことであり、彼らは「一紙半銭の慈悲を施せ」として国中を回ったのです。しかし、一紙半銭は所詮は一紙半銭であり、それを積み重ねて町石1基に必要な額にまで積み上げるのは容易ではなかったと思われます。

おそらく、覚きょうや安達泰盛達にしてみれば、そんな手間のかかることをするよりは、どこかの有力者に「もう1基お願いします」と頼みにいった方がはるかに容易いことだったはずです。

しかし、彼らはその「一紙半銭」にこそこだわり、そのこだわりゆえに10年という時間が必要になったと考えるのです。
そして、その証拠と言うほどではないのですが、この「十方施主」「十方檀那」と刻まれた町石は「125町石」「123町石」「122町石」「121町石」というエリアに集中しているのです。

このエリアは町石道で言えば「六本杉」から「二つ鳥居」に至るエリアです。
実は、このエリアは正式な参詣道のルートからは外れた場所になるのです。

六本杉分岐の道標とプレート

高野山参詣の正式なルートは慈尊院から六本杉まで来れば、そこから天野に下って丹生都比売神社に参拝し、そこから再び「二つ鳥居」に登り直して高野山に向かうものです。
ですから、この正式ルートを辿ると「125町石」「123町石」「122町石」「121町石」はパスされてしまうエリアに立っているのです。
実際、六本杉まで来てそのまままっすぐ道を辿ると天野に下りていってしまいます。そこから直接二つ鳥居に向かうには大きく左に曲がらなければいけません。

六本杉の分岐、まっすぐ行くと丹生都比売神社 大門へはここを大きく左に曲がる必要があります。

はじめて、町石道を辿ったときはこの分岐点の道の作り方がへんてこだと思ったのですが、古の正規な作法を知ればなるほどと納得のいく分岐だったのです。
つまりは、高野山町石道の中でこの六本杉と二つ鳥居の間は一番の裏街道なのです。ですから、時間をかけて何とか必要な資金を集めたときに残っていた場所はこの裏街道しかなかったのではないかと想像されるのです。

この考えが頭に浮かんだのは、前回に町石道を辿ったときにはパスをしてしまった「六本杉ー天野(丹生都比売神社)ー二本鳥居」のコースを、6月に入ってから歩き直してみた時でした。その時に、あらためてじっくりと「125町石」「123町石」「122町石」「121町石」と連なる町石を眺めていたときに、この連なりと集中に一つの意味を感じたのです。
もちろん、これは全く持って私の想像にしか過ぎません。

しかし、全体の3%にも満たない僅か6基の「十方施主」「十方檀那」なのですが、それが意味するものは非常に大きいのではないかと思うのです。

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