松下禅尼~倹約の教え
次ぎに松下禅尼です。
町石には「菩薩戒尼真行」と刻まれていて3基建立しています。
松下禅尼は安達景盛の娘で3代執権北条泰時の長男である北条時氏のもとに嫁いだ女性です。
北条泰時と言えば、承久の乱では幕府の先頭に立ち、執権となってからは御成敗式目などを定めて、実質的に鎌倉幕府の基礎を築いた超大物です。その超大物の長男のところに嫁いだのは、安達氏と北条氏とのつながりを深めるためだったと考えられます。
彼女の父親である景盛は実朝の側近であり、実朝が暗殺された後は出家して高野山に入って金剛三昧院を建てて高野入道と称された事は既にふれました。
また、夫となった時氏は泰時から後継者として期待されながら、僅か28才でこの世を去っています。
しかし、松下禅尼はその時氏との間に多くの子供に恵まれたので夫婦仲はよかったものと想像されます。彼女は、早逝した夫の後を継いで子供たちの養育に力を尽くし、長男の経時は祖父泰時の跡を継いで4代執権となり、次男時頼は5代執権を継ぎます。
さらに、蒙古との戦いの先頭に立った8代執権時宗はその時頼の次男であり、幼少時は松下禅尼のもとで育てられたと伝えられています。
さらに、娘の檜皮姫(ひわだひめ)は5代将軍頼嗣の正室になっています。
つまりは、彼女こそは鎌倉幕府の中枢にどっかりと腰を下ろしたゴッド・マザーとも言うべき存在でした。そんな彼女の人柄が兼好先生の「徒然草(184段)」の中に綴られています。
相模守時頼の母は、松下禅尼とぞ申しける。守を入れ申さるる事ありけるに、すすけたる明り障子のやぶればかりを、禅尼手づから、小刀して切りまはしつつ張られければ、兄の城介義景、その日のけいめいして候ひけるが、「給はりて、なにがし男に張らせ候はん。さやうの事に心得たる者に候ふ」と申されければ、「その男、尼が細工によもまさり侍らじ」とて、なほ一間づつ張られけるを、義景、「皆を張りかへ候はんは、はるかにたやすく候ふべし、まだらに候ふも見苦しくや」とかさねて申されければ、「尼も、後はさはさはと張りかへんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理して用ゐる事ぞと、若き人に見ならはせて、心づけんためなり」と申されける、いとありがたかりけり。
世を治むる道、倹約を本とす。女性なれども聖人の心にかよへり。天下を保つ程の人を、子にて持たれける、誠に、ただ人にはあらざりけるとぞ。
倹約の大切さを教える話なのですが、兼好先生にしては実につまらないお話になっているのですが、この話は昭和期の国定教科書にも取り上げられたので、松下禅尼と言えば「倹約の教え」と結びつくことになりました。
「相模守時頼」とは彼の次男のことで、兄である4代執権経時が23才でなくなったために、思わぬ形で執権職を引き継ぐことになった人物です。
「守を入れ申さるる事ありける」とは、その時頼を家に招いたときのことだというのです。
「すすけたる明り障子のやぶればかりを、禅尼手づから、小刀して切りまはしつつ張られければ」と言うことで、禅尼が破れた障子の破れたところだけを小刀で切って張り直していたというのです。
それを見ていたのがお手伝いに来ていた兄の義景だったのです。安達義景と言えば町石プロジェクトの立役者である安達泰盛のお父さんですから、松下禅尼は泰盛の叔母さんにあたるわけです。
義景は妹の禅尼がチマチマと障子の張り直しをしているのを見て思わず声をかけてしまうのです。
「給はりて、なにがし男に張らせ候はん。さやうの事に心得たる者に候ふ」
それに対する禅尼の答えが実にわざとらしい(と、私などは感じるのです)。
「その男、尼が細工によもまさり侍らじ」
そんな男私より上手に張り替えるが出来るの、ってかんじですね。
そこで、兄ちゃんも負けていないのでこう言い返します。
「皆を張りかへ候はんは、はるかにたやすく候ふべし、まだらに候ふも見苦しくや」
そんなチマチマと破れたところだけを張り替えるよりはぱーっとみんな張り替えた方が簡単でしょう、それに破れたところだけ張り替えたらまだらになって見苦しいですよ。そりゃ、その通りです。
しかし、そう言う兄の忠告に妹はこう切り返すのです。
「尼も、後はさはさはと張りかへんと思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理して用ゐる事ぞと、若き人に見ならはせて、心づけんためなり」
私もそりゃ分かってるわよ、後から貴方の言うとおりにするつもりよ。でも、今日はわざとこうしてるのよ!
ものは壊れたところだけを修理するものだと言うことをまだ若い時頼ちゃんに見せて教えるためよ。
そして、この話をどこで聞いたのか、兼好先生が書き残したことで昭和の国定教科書にまで載ることになったのですが、たかがこれくらいのエピソードをもとに「天下を保つ程の人を、子にて持たれける、誠に、ただ人にはあらざりけるとぞ」と持ち上げるのは「よいしょ」が過ぎるというものです。
しかし、禅尼は兼好先生でさえ思わず「よいしょ」したくなるほどのゴッドマザーだったと言うことなのでしょう。
そして、何もかも達観したような振りをしながら、意外と俗気が抜けきっていないことが透けて見えるのも兼好先生らしいのです。
松下禅尼~使うときは使うのよ
と言うことで、「松下禅尼=倹約の教え」みたいになっているので、町石プロジェクトにポンと3基大盤振る舞いしていたというのは、色々な意味で興味深い事実です。町石3基と言えば今の貨幣価値にすればざっと10億ですから半端じゃない出費です。
しかし、彼女が施主となった町石の銘文を見ていると、これまた色々なことを考えさせられるのです。
「松下禅尼=菩薩戒尼真行」と刻まれているのは奥の院側の17町石、そして133町石と134町石です。
この3つの町石にはしっかりと銘文が刻まれています。
まず、奥の院側の17町石なのですが、その右側に「為修理權亮平時氏」と刻まれています。
これは明らかに、彼女の夫であり、3代執権泰時の後継者として期待されながらも若くして亡くなった北条時氏の供養のために建てたものです。
また、134町石の右側には「為先妣帰依阿弥陀佛」と刻まれています。正面には施主として「菩薩戒尼真行」、左側には「文永四年十一月 日」と建立した日付が刻まれています。
「先妣」とは「せんぴ」と読み「死んだ母親」の事を意味しますから、これは禅尼が亡き母の供養のために建てたことが分かります。彼女の母「武藤頼佐の娘」と伝わっているのですがそれ以上に詳しいことは分かりません。
ただし、左側に「文永四年十一月 日」となっているので、「覚きょう」の願文から僅か2年後に建立されたことが分かりますから、亡き母への思いの深さが伺えます。
そして、それ以上に深い思いが伝わってくるのは133町石です。
ここには、右側に「為二品征夷将軍三品羽林室家」、正面に「菩薩戒尼真行」、そして左側に「文永四年十一月 日」と刻まれています。
この亡き母の供養のために建てた134町石と同時に建てられた133町石に刻まれた「為二品征夷将軍三品羽林室家」とは誰でしょうか。
手掛かりは「二品征夷将軍三品羽林家」です。鎌倉幕府の将軍の中で「羽林家」と言えば実朝亡き後に九条家からむかえられた4代将軍頼経と、その息子の5代将軍頼嗣のどちらかです。
しかし、この町石は「羽林室家」となっていますから、その将軍ではなく、将軍の「室」のために建てられています。
「室」とは言うまでもなく「正室」、つまりは妻のことですから、これは間違いなく頼嗣のもとに嫁いだ禅尼の娘、檜皮姫の供養のために建てられたものです。
檜皮姫は16歳の時に、わずか7歳の新将軍頼嗣のもとに嫁ぎます。それは北条家が将軍家の外戚という地位を維持するための政略結婚であったことは明らかでした。
さらに、悲劇的だったのは、その2年後に病を得て僅か18歳で亡くなってしまうのです。政略の道具として扱われ、さらには若くして亡くなった娘への思いは禅尼の中で消えることはなかったのでしょう。
彼女が亡くなってから20年以上の時が経過しているのですが、禅尼は亡き母への供養と娘への供養のために二つの町石を並べて建立したのです。
なお、夫の供養のために建てた町石には日付が刻されていないのですが、おそらくはこれも含めて同時に建立したと考えるのが妥当でしょう。
徒然草に残された、倹約を教える道徳的な女性よりは、この町石にこめられた思いと、そのためには惜しむことなくお金をつぎ込む姿の方が、禅尼の本当の姿を伝えているように思われます。