町石道について~誰が数億円を負担したのか(4)

女性といえどもかなりの財力があった

町石プロジェクトは高野山の僧「覚きょう」が発願し、安達泰盛を中心とした有力者の支援によって、20年という年月をかけて完成しました。そして、落慶法要の中で「覚きょう」はお世話になった人たちの名前を読み上げています。(町石建立供養願文)
ただし、東大寺のお水取りのように延々と名前を読み上げるわけにはいかないので(^^;、6名の名前を上げています。

「覚きょう」はまずトップに安達泰盛(奥州禅刺)の名を挙げ、「三代大施主也」として安達氏への感謝の念を述べています。
それに続けて「兼復(おそらく「兼ねて復た」という意味)」として後嵯峨法皇(上皇)の名を読み上げています。
普通は上皇をの名を先に挙げて、続けて泰盛だと思うのですが、それだけ泰盛の尽力が大きかったことと、幕府の力の大きさを示しているとも言えそうです。

そして、この二人に続けて「斯外(おそらく「かかるほか」という意味)」として、「鎌倉二品禅尼」、「相州前吏幽儀」、「大連・沙弥父子」・「故松下比丘尼」の4名の名前を上げています。

ちなみに、「相州前吏幽儀」とは執権北条時宗のことです。時宗はこの落慶法要の時にはなくなっていますので「幽儀」という「死者の霊」を表す言葉をつけたものと思われます。
「大連・沙弥父子」は大連坊と名乗った安達景盛(安達氏の祖)の事だと思われます。安達氏に関しては「三代大施主也」と述べておきながら、もう一度安達景盛の名前を上げているのです。

さらに注目されるのは、「鎌倉二品禅尼」と「故松下比丘尼」の二人です。
「尼」「比丘尼」となっているので、この二人は女性であることが分かります。

膨大な資金が必要となる町石プロジェクトの功労者として、あまたの有力御家人や貴族を押しのけて、ここに2名の女性の名前が挙がることは注目すべきことです。

古代国家では男が女性のもとに通う「妻問婚」が基本なので、財産は女系で相続されました。一族の財産を息子が引き継ぐのか、娘が引き継ぐのかは重要な問題であり、この娘が引き継ぐことが基本の時代では女性の社会的地位は必然的に高くなります。
この形態は平安時代まで続けられるのですが、やがて封建体制が成熟するにつれて妻は夫の家に入るようになります。

この婚姻形態の変化によって生まれた子供は男の家で育つようになり、さらには娘は他家に出てしまうことになるので、必然的に財産も男系で相続されるようになります。それは、同時に女性の社会的地位の低下に結びついていくことになります。
しかし、この「覚きょう」の願文を見る限りは、鎌倉期においてはいまだに女性の地位がかなり高かった様子がうかがえます。
「鎌倉二品禅尼」も「故松下比丘尼」も、何らかの形で一族の財産を相続しうる権利を持っていたと思われます。

しかし、すべての町石の銘文を調べても、「鎌倉二品禅尼」や「故松下比丘尼」という名前が刻まれているものは存在しません。
しかし、有難いことに系図などの古い文献をもとに絞り込むという困難な作業を行ってくれた研究者がいて、現在では概ね以下のように特定されているようです。

  1. 鎌倉二品禅尼:鎌倉4代将軍、藤原頼経の妻で、大宮殿と呼ばれた女性→町石には比丘尼了空と刻まれている
  2. 故松下比丘尼:北条時氏の妻である松下禅尼→町石には菩薩戒尼真行と刻まれている

この「比丘尼了空」と「菩薩戒尼真行」と刻まれている町石はそれぞれ3基ありますから、確かにこの二人は大スポンサーだったわけです。

藤原頼経の妻、大宮殿

鎌倉幕府は源氏嫡流の将軍は三代実朝で途絶えます。そこで、4代目からは摂関家の子弟(摂家将軍)、次いで皇族(宮将軍・親王将軍)を迎えて将軍職に就かせることになります。
藤原頼経は、そうやって京都から迎えられた最初の将軍であり、名目的存在となるはずでした。

鎌倉4代将軍 藤原頼経

しかし、官位を高めていくにつれて北条得宗家の専制に反感を持つ御家人の拠り所となり、その事が好むと好まざるとにかかわらず北条氏との確執を深めていくことになります。
また、最初の正室となった竹御所は実朝亡き後の鎌倉では頼朝の血を引く唯一の存在だったのですが、最初の出産で母子ともに亡くなったことも鎌倉の御家人たちには大きな衝撃を与えました。

頼経は、その後、藤原親能の娘を妻として迎え男の子(頼嗣)を出産するのですが、この女性が町石のスポンサーとなった「大宮殿」であり、「鎌倉二品禅尼」であり、「比丘尼了空」です。

しかし、頼経と北条氏との確執はおさまらず、ついに北条氏によってわずか4歳の頼嗣に将軍職を譲ることを強いられ、最後は京都に追放されます。それでも、この確執はおさまらず、最終的には息子の頼嗣も将軍職を追われ、大宮殿も頼嗣とともに鎌倉から追放されてしまいます。
そして、ここで注目したいのは、「大宮殿」は将軍の妻、もしくは将軍の生母としてではなく、それらの地位をすべて奪われて京都に追放されてから町石のスポンサーになっていることです。

なぜならば、これら一連の出来事はすべて町石プロジェクトは始まるよりも前の出来事であり、夫であった頼経と息子の頼嗣はともに1256年に亡くなっているからです。ちなみに、町石プロジェクトが始まったのは1266年です。
彼女は、そのような公的地位から追放されても、町石3基の施主となるだけの財力があったのです。

彼女が施主となった町石は奥の院側の19町石と慈尊院側の8町石、151町石です。

151町石は正面に「比丘尼了空」とだけ刻まれています。

151町石 正面に「比丘尼了空」とだけ刻まれている

8町石には正面に「比丘尼了空」、右側に「文永五年閏正月日」とだけ刻まれていています。

現在は大門前の車道沿いにぽつんと立つ8町石

奥の院側の19町石には正面に「比丘尼了空」、背面に「沙弥成仏」とだけ刻まれていています。

どれも極めてシンプルなのですが、おそらく彼女の真意は奥の院側の19町石の背面に刻まれた「沙弥成仏」にあることは間違いないでしょう。
当然の事ながら、これは夫であった「頼経」と息子であった「頼嗣」の供養であったことは明らかです。

ただし、彼らと北条氏をめぐる確執の過去を考えれば、それをあからさまに銘文として刻み込むことには遠慮があったのでしょう。
その意味では「沙弥成仏」の4文字にこめた彼女の思いの深さは胸に伝わってきます。

 

そして、奥の院側の町石はすべて後の時代の再建になるものなのでパスしてもいいかと思っていたのですが、こういうことが分かってくるとそちらもチェックしに行かなければ…という気持ちになってきます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です