町石道について~誰が数億円を負担したのか(3)

町石プロジェクト最大の立役者~安達泰盛

町石の施主となった人たちは、自らの「極楽往生」や亡き人への「供養」、さらには「蒙古襲来」という国難に対する「国家鎮護」の祈りをこめて資金を提供したことがわかりました。
しかし、こういうプロジェクトはそのようなな祈りや願いだけでは実現しません。成功させるためには、そのような祈りや願いを「資金提供」という具体的な形にまで結びつける仕組みが必要です。

この町石プロジェクトを、発案(発願)したのは高野山の僧である「覚きょう」という人です。
彼は、自分の発案を「町石建立の勧進願文」という形でまとめていて、そこには幕府や朝廷の有力者が「助縁者」として名を連ねています。具体的には後嵯峨上皇や北条時宗、北条政村という幕府執権たちなので、それはこの「発願」の権威付けにはなったはずです。
しかし、町石1基を建てるには、現在の貨幣価値に直して2億円から3億円程度のお金が必要です。いくらお金持ちといえど、上皇や執権の権威付けだけで簡単に出せる金額ではありません。

そこで最後の一押しとして必要なのは、お金を出してくれそうな人のところへ出向いて行って直接お願いすることです。
そして、直接会ってお願いするためにはそれなりの社会的地位がなければ会えませんし、さらには、「こいつから頼まれたらイヤとは言えないなぁ!」と思わせる人柄も必要です。
誰でもいいというわけにはいかないのです。

話はそれますが、朝比奈隆という指揮者は半世紀以上にわたって大阪フィルの音楽監督を務めたのですが、彼がそれほどの長きにわたってオケに君臨できたのは、その音楽的才能だけでなく、京大卒の人脈を通して多くの企業人から寄付を集めることができたからです。
経済的に成り立つはずもないオーケストラというシステムを支えていたのは、まさにそのような朝比奈の人脈であり、朝比奈にはオーケストラのメンバーを食わせているのは自分だという自負がありました。そして、オケのメンバーもそのことはよくわかっていたので、複雑な感情も交えながら朝比奈のことを「オヤジ」と呼んだのです。

ですから、町石プロジェクトでも、幕府や朝廷の有力者に対して町石建立のお願いをしてくれる人物が絶対に必要だったのです。
そして、その人物こそが「安達泰盛」だったのです。

安達泰盛

安達氏の祖とされる安達盛長は伊豆に流罪となった頼朝の従者として仕え、頼朝挙兵以後は東国の武士団を結集するために力を尽くし、幕府成立においても重要な役割を果たした人物です。

安達氏の祖とされる安達盛長座像

安達泰盛は、その安達氏の4代目に当たり、年の離れた妹を養女として北条時宗に嫁がせ、その妹は九代執権となる貞時を産んでいます。
つまり、もともと有力な御家人であった泰盛は、北条得宗家の外戚となることで鎌倉幕府のナンバー2ともいうべき地位に上り詰めた人物なのです。

こういう書き方をするとなんだかギラギラとした野心家のように聞こえるのですが、高野山が真言密教関係の経文や解説書などを刊行するために協力を惜しまなかった文化人という側面も持っていました。

また、泰盛は蒙古襲来という国難にあって「恩賞奉行」という難しい仕事を任されています。
「恩賞」は「御恩と奉公」という鎌倉幕府の統治システムの根幹にかかわる案件であり、そのトップには高い公平性と倫理性が求められたはずです。

肥後の御家人 竹崎季長

蒙古襲来といえば、だれもが思い出すのが「蒙古襲来絵詞」です。
あの絵詞は肥後の御家人、竹崎季長が戦役での自分の軍功を幕府に訴えるために書かせたものなのですが、そこでは自分の軍功を認めさせるために幕府の役人に直談判している場面が描かれています。
その直談判している相手こそが安達泰盛なのです。

安達泰盛と竹崎季長

そういう意味において、彼こそはこの町石プロジェクトにおいて「こいつから頼まれたらイヤとは言えないなぁ!」と思わせる人物であり、さらには「恩賞奉行」というポジションゆえに、幕府だけでなく朝廷の有力者とも深いコネクションがあった人物なのです。

ですから、「覚きょう」やその配下の高野聖たちが一般民衆の中に入って「極楽往生」や亡き人への「供養」のために勧進したのに対して、安達泰盛は幕府や朝廷の有力者を担当したのです。

町石は慈尊院と根本大塔の間に180基、根本大塔と奥の院の間が36基、計216基です。

そのうち民衆からの寄進で建てられたと思われるものは6基です。
残りの210基はすべて幕府や朝廷の有力者などによって建立されています。

もちろん、その210基の中には最初から「助縁者」として協力を約束してくれた人や高野山の有力な僧侶もいましたから、そのすべてが安達泰盛の力添えで建立されたわけではありません。しかし、そのかなりの部分が安達泰盛の尽力によって寄進された事は間違いありません。

その意味で、彼こそは町石プロジェクト最大の立役者であり、彼の働きがなければこのプロジェクトは成し遂げられなかったことだけは間違いありません。

身内の供養に徹した泰盛の町石

なお、泰盛自身も5基の町石の施主となっています。
最近の研究では、これは後嵯峨上皇と並ぶ最多の寄進者と見られています。そして、泰盛自身はもっと多くの町石を寄進するつもりはあったようなのですが、後嵯峨上皇の5基という数に遠慮してそこでとどめたようなのです。

泰盛が施主となったのは奥の院側の22町石と25町石、慈尊院川の12町石、158町石、159町石の5基です。
この中で特に注目したいのは158町石と159町石です。

158町石 2月騒動で犠牲となった人々を供養する銘文が刻まれている

この二つの町石は右手に紀ノ川方面の展望が開け、町石は左手の少し離れた高いところにあるので、こんな写真しか撮れていません。おまけに、159町石は見落としています。(^^;
この二つの町石にはまった同じ銘文が刻まれていて、その中に以下のような文章があります。

関東云洛陽或十一日或十五日際交戦之場致夭死之輩、
答此善根z∵囎・ア時文永九年晩夏五月仍経銘曰

この「十一日或十五日際交戦之場」とは北条時宗が庶兄の北条時輔を謀反の疑いありとして滅ぼした2月騒動の事を意味しています。
2月11日には鎌倉で北条時輔の有力な支援者である名越時章・教時兄弟が攻め滅ぼされ、15日には京で六波羅探題の地位にあった北条時輔が殺されているのです。

泰盛はこの戦いで亡くなった多くの人たちを供養するためにこの2基の町石を建立したのです。
「文永九年晩夏五月仍経銘曰」となっていますから、彼はこの騒動から僅か3ヶ月後にこの町石を建立したことになります。

なお、この「2月騒動」は幕府内部においても積極的に支持する御家人は少なく、その詳細は朝廷方の記録を通して伝わっています。それが、結果として時宗への権力が集中したにもかかわらず幕府内での孤立を招きました。
この泰盛が施主となったこの町石の銘文は、幕府方の人間が2月騒動に関して残した数少ない記録だと言えます。
正面に「一代彰功」とも刻んであるのは時宗に対する配慮ととらえるべきで、本心としてはかれもまた時宗の振る舞いは支持も納得もできなかったものと思われます。
しかし、時は蒙古襲来が目の前に迫っている文永9年(1272年)であり、泰盛はこの騒動で滅ぼされた名越氏が影響力を持っていた九州地方の守護職となり時宗を支えることになります。

時宗の早逝は蒙古襲来という国難への対処で心身をすり減らしたためと言われるのですが、そういう困難な仕事を孤立感の中で遂行しなければならなかったことも大きな原因があったと考えられています。

さらにこの人物について注目したいのは、彼が施主となった町石はこの二つの町石以外も全て誰かの「供養」のために建立されている事です。

慈尊院側12町石には「為先考入道秋田城介藤原義景」と刻まれています。
「義景」とは彼の父親である安達義景のことです。

12町石 「為祖父入道秋田城介藤原景盛」と刻まれている

奥の院側22町石には「為祖父入道秋田城介藤原景盛」と刻まれています。
「景盛」は彼の祖父であり三代将軍実朝の側近だった人物です。彼は実朝の暗殺に絶望して出家し、実朝の菩提を弔うために金剛三昧院を建立して高野入道と称された人物です。
安達氏と高野山の強い結びつきはこの時からはまりました。

同じく奥の院側25町石には「為曽祖父藤原盛長入道」と刻まれています。
「盛長」は流罪となった頼朝に従者として仕え、安達氏の祖となった人物です。

蒙古襲来という国難に最前線で関わっていた人物ならば、全て身内の供養のために町石の施主となっても、誰もそれをスキャンダルとは思わなかったのでしょう。

そして、この町石プロジェクトに全力を尽くして貢献した泰盛は、町石プロジェクトが完成するのを見届けた1ヶ月後に「霜月騒動」で一家滅亡の憂き目を見ます。
鎌倉時代というのはこの手の「騒動」が多発した時代ではあるのですが、あまりにも哀れといわざるを得ない出来事でした。しかし、そういう過酷な運命であったとしても、彼の名前は高野山の参詣道に今も立ち続ける町石とともに永遠に記憶されるづけることになったのです。

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