自らの「極楽往生」や、父母や親しい人への「供養」ために町石の施主となった理由はわかりました。
しかし、それだけが町石をたたて目的ではありません。
昔から町石の下には金銀財宝が埋められているという話が実しやかに伝わっていたのですが、37町石の下からは金銀ならぬ「経石」が出土しています。
2.鎮護国家のために
37町石は高野山に向かう自動車道路と町石道が接する場所に建てられています。
外から見ただけでは何の変哲もない町石で、銘文なども刻みこまれていません。しかし、この町石の下から300個近くの「経石」が発見されたのです。
「経石」とは経典の文字を書いた石のことです。
37町石の下からは、小さなものでは3セントメートル程度、大きなものでは10センチメートル程度の経石が出土し、「金光明最勝王経」とみられる経典が小さな文字でビッシリと書き込まれていました。
「金光明最勝王経」は鎮護国家に利益のある経典とされています。
その内容をかいつまんで要約すると、「この経を広め、また読誦して、正法をもって国王が施政すれば国は豊かになり、四天王をはじめ弁才天や吉祥天、堅牢地神などの諸天善神が国を守護するとされる。」というものらしいです。
つまり、この町石の施主は国を守るための経典を地中に収めて町石を建立したのです。
その理由は言うまでもないでしょう。
「蒙古襲来」という国難に直面したためです。
元帝国を築いたフビライは高麗を服属させ、日本にも同様の服属を要求してきました。
当時の外交担当は朝廷だったのですが、結果としてこの要求を拒否します。そして、国書の最後に「至用兵、夫孰所好 王其圖(兵を用いることは誰が好もうか。王は、其の点を考慮されよ)」と書いてあった以上は元との戦いになることは避けられないと判断して、幕府も防衛体制の構築に取り掛かります。
フビライからの国書が届いたのが1268年とされていますから、まさに町石プロジェクトが始まったばかりのころです。そして、日本と元との外交交渉は2度の戦役(1274年:文永の役・1281年:弘安の役)をはさんで1299年までつづけられます。
フビライは2度にわたる侵攻に失敗しても諦めることなく、第3次侵攻を準備しながら外交交渉を継続しますから、町石プロジェクトが完成した1285年になっても、依然として強い緊張感が国内を覆っていました。
鎌倉幕府は御家人を動員して防衛体制を構築、維持するとともに、朝廷も日本中の神社や寺院にも祈祷を命じました。
外国による武力侵攻に祈祷が何の役に立つのかと思うのは近代人の感覚で、中世という時代に生きる人々にとっては、それはリアリティのある力として存在していたのです。その証拠に、戦役後の論功行賞で多くの寺社が見返りとしての「恩賞」を要求し(神々による軍忠状)、幕府もまたその「働き」を認めて「恩賞」を送っているのです。
そういう国難ともいうべき危機的状況を背景として、高貴な人たちは自らの「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」として町石の施主となったのです。
現在、町石の下から大量の経石が発見されたのは37町石だけですが、それ以外にも42町石と51町石からも1個ずつ出土しています。
ちなみに、42町石の施主は北条政宗、51町石の施主は二階堂行綱です。
北条政宗は幕府評定衆を務めた北条一族であり、二階堂行綱も同じく評定衆や政所執事を務めた文官のトップともいうべき有力後家人でした。そして、この二つの町石にも銘文は刻まれていません。
高野山の町石の大部分は鎌倉時代に建てられたものがそのままの形で残されていますので、破損したり、何らかの理由で移動する必要に迫られた以外は発掘作業などは一切行われていません。37町石の経石も、おそらくは自動車道路の開通に伴って移動させたときに発見されたものではないかと想像されます。(いろいろ調べましたが裏が取れませんでした。)
ですから、ほかの町石の下にも、この37町石と同じような経石がおさめられている可能性があります。
例えば、前回紹介した佐々木氏信も鎌倉幕府の評定衆を長く続けた有力御家人であり、彼が施主となった2つの町石には何の銘文も刻まれていないので、発掘すれば経石が出てくる可能性があるのではないかと想像されます。
また、佐々木氏信以外にも銘文が刻まれていないシンプルな町石は数多くあるので、そこにも経石がおさめられている可能性は大きいと思います。
特に、執権職にあった北条時宗や北条政村、後嵯峨上皇などの朝廷側の有力者が施主となった町石は、その下に経石がおさめられている可能性は高いと思われます。
しかしながら、執権や上皇が施主となった町石の大部分は高野山の町中に建てられていて、そういう町内に建てられた町石は度重なる火災で元の姿をとどめていません。ですから、たとえ発掘しても確認のしようがないのですが、この社会情勢の中でそのような有力者が自らの「極楽往生」だけを願って町石を建てていたとすれば、それはもうスキャンダルです。
自らの義務を果たしている証拠として、彼らも経石を収めて町石を建てたことは間違いないと思います。
なお、経石に使われた石は「緑泥片岩」と呼ばれる岩石なので、紀ノ川の河原の石が使われたものと考えられています。なぜならば、河原の石のように角が取れた滑らかな石は清浄なものと考えられていたからです。
施主は町石が完成すると慈尊院を訪れ、紀ノ川の河原で石を拾い集め、そこへ自らが筆を執ってお経を書き込んだものと想像されます。
そして、上皇や執権のように自らが赴くことができない有力者の場合は、代理人が慈尊院に派遣されて、主人に変わって筆を執ったのではないでしょうか。
おそらくは、この河原の石を拾い集めそこへ経典の文字を書き込むというセレモニーが、自らの「noblesse oblige」を果たしている証となったはずです。
なお、37町石の施主は正面に「比丘尼専観」と刻まれています。
「比丘尼」とあるので女性であったことは確かなのですが、その女性が一体誰であったのかはよくわかっていないようです。
私は、おそらくは、有力貴族か天皇家につながる女性ではなかったのかと推測します。
なぜならば、これほどのお金を「極楽往生」や「供養」のためでなく、「国家鎮護」というオフィシャルな目的のために提供するためにはよほどの資産家でなければ不可能であり、この時代にそれほどの資産を蓄積できるのは荘園からの収入がなければ不可能だからです。
鎌倉中期というのは、荘園の持ち主は名目上は貴族や天皇家、もしくは有力寺社であり、武士はその現地管理官という位置づけでした。ただし、有力な御家人は地頭や守護職という鎌倉幕府のお墨付きをもらって管理している荘園に対する実質的支配権を広めていきました。ですから、かなり有力な貴族や天皇家でなければ荘園からの収入は先細りする一方だったので、この「比丘尼専観」もそのような階層に属する女性だと想像したのです。
そして、そのような高貴な身であるがために果たさなければならない「義務」があったのでしょう。
なお、この10町石は北条時宗が施主となった町石で、執権や上皇が施主となった町石で唯一鎌倉時代のオリジナルが残されているものです。発掘すれば何が出てくるのか興味があります。