町石道について~誰が数億円を負担したのか(1)

町石を一基たてるだけでとんでもないお金が必要だったことはお分かりいただけたと思います。
そうなると、次の疑問は、誰がそのお金を負担したのかと言うことです。言葉をかえれば、「高野山の参詣道に道しるべを兼ねた町石をたてるので、一口2億円で寄付お願いします」と頼みにこられて、誰がその求めに応じたかです。

もちろん、今も昔もお金持ちはいるわけで、その数億円を寄付できる人は一定数はいたでしょう。しかし、問題となるのは、寄付をする目的です。
商品経済が未だ未発達な時代ですから、町石をたてることが「広告」になると言うことはあまり考えられません。コマーシャルではないのです。

では、何が目的だったのでしょうか。
それは、町石に刻み込まれた「銘文」をみれば幾つかの目的が浮かび上がってきます。

1.極楽往生を願って

その目的の一つが、この87町石に刻み込まれています。

87町石 「一見卒都婆 永離三悪道、何況造立者 必生安楽国」の銘文が刻まれている

この写真ではよく分からないのですが、右の面にこのように刻み込まれています。

「一見卒都婆 永離三悪道、何況造立者 必生安楽国」

読み方は「いっけんそとば / えいりさんあくどう / いずくんぞいわんやぞうりゅうしゃ / ひっしょうあんらっこく」です。

「一見卒都婆 永離三悪道」とは「卒都婆を1度見ただけで、永久に三悪道(地獄道・餓鬼道・畜生道)から離れることが出来る」という意味です。
「何況造立者 必生安楽国」は「ましてや卒都婆をたてたものは、必ず安楽国(極楽)へ生まれる」という意味になります。

施主の思いは「何況造立者」という5文字に凝縮されています。

では、ここまでの極楽往生への願いを込めて施主となったのは誰でしょう。
87町石の正面には「沙弥茲佛、沙弥成佛」、左面に「沙弥印佛」と刻み込まれていて、この3人が施主となってこの町石を建立したことが分かります。

それでは、この「沙弥茲佛、沙弥成佛、沙弥印佛」とはどのような人物だったのでしょうか。
この名前は明らかに出家した後に名乗る「法名」ですから、これを特定するには家系図などを辿っていく必要があります。そして、そう言う繁雑な作業をやってくれている研究者がいて、この3名のうちの一人が「佐々木行綱」であることが分かっています。

佐々木氏は近江源氏の流れを汲む名門の御家人で、行綱以外に佐々木氏信が52町石・53町石の2基、佐々木政義が9町石の1基を建立しています。

52町石 佐々木氏信(鎌倉幕府の評定衆)が建立し、銘文は刻み込まれていない。

なお、53町石は二つの卒都婆がたっています。
実は、向かって左側の町石は、鎌倉時代のものが不明になっていたために昭和35年(1960)に再建されたものです。ところが、平成10年(1998)に当初のものが発見されたので、修復をおこなった後再びあるべき場所にかえってきたものです。修復されているので、オリジナルのほうが新しく見えるのが不思議です。

53町石 これにも銘文は一切刻まれていません。

ちなみに、氏信は鎌倉幕府の評定衆もつとめ、名門守護大名の京極氏の祖となる人物です。
佐々木氏は平治の乱に敗れて頼朝とともに東国に流され、その後の頼朝の挙兵にも側近として仕えた一族です。その戦いの中で多くの一族が命を失い、さらには承久の乱では一族が幕府方と朝廷方に分かれて争うということも経験しています。

彼らが罪を重ねて三悪道に落ちるという観念は、今の私たちには想像がつかないようなリアリティがあり、さらには殺し、殺されるという修羅場をくぐることで、その「罪」の意識は深かったと思われます。

そして、そういう一族の出世頭ともいうべき氏信の町石には何の銘文もなくシンプルなのは、人の世の姿の一端を垣間見る思いにさせてくれます。

9町石 「為父母并比丘尼唯仏」の銘文が刻まれている。

また、佐々木政義が建立した9町石の左側には「為父母并比丘尼唯仏」と刻み込まれています。

「父母並びに比丘尼のために」という「供養」が目的だったことがわかります。

政義は父の跡を継いで隠岐・出雲両国の守護職を相続するのですが、三浦泰村との諍いが原因で、怒りに任せて無断で出家をしてしまいます。幕府はこの無断出家を許さず、罪としてすべての所領を没収されてしまいます。
「為父母并比丘尼唯仏」という銘文は、そんな馬鹿な息子の父母への詫び状のようにも読めるのですが、それよりもすべての所領が没収された身で町石1基の施主になる経済力があったことに驚かされます。

ちなみに、彼が出家したのは1250年で、町石プロジェクトが始まったのが1265年です。つまり、政義はすべての所領を没収された中で施主となっているのです。

自分の極楽往生を願い、父母や親しかった人の極楽への生まれ変わりを願って彼らは町石の施主となったのです。

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