現地に足を運んで「現物」と向き合うと、「ああ、なるほど!」と閃くことがあります。
もっとも、仏様を「現物」とは恐れ多い物言いなのですが、しかし、それ以外にピッタリの言葉が見あたらないのでご容赦ください。
大阪藤井寺市というのは小さな町なのですが、市内に国宝の仏像が2体もあります。
一つは道明寺の十一面観音で、もう一つが葛井寺の千手観音です。ちなみに葛井寺はこれで「ふじいでら」と読み、藤井寺という市の名前の由来にもなっています。
どちらも今は小さなお寺ではあるのですが、葛井寺は古代豪族の葛井氏の氏寺、道明寺も同じく土師氏の氏寺だったという歴史を持っています。土師氏は後に菅原と名を改め、本尊の十一面観音は菅原道真の作と伝えられています。
ともに朝廷の中枢で重要な役割を担った豪族ですから、その本尊の作成に関しては奈良や京都の大寺と変わらぬ腕利きの仏師が起用されたものと推測されます。
道明寺の十一面観音に関しては、道真自身が作ったとは思われませんから、おそらくは朝廷に中枢にいた頃に彼が命じて作らせたと言うことは考えられます。
今回、「現物」と向き合って(失礼!)、「ああ、なるほど!」と閃いたのは葛井寺の千手観音の方でした。
この千手観音は常に公開しているわけでなく、毎月十八日にだけ一般公開されていて、その日には境内にちょっとした縁日のようにお店が出ます。また、葛井寺は西国三十三所巡礼の第五番札所でもありますから、十八日が平日でも結構な人出で賑わっています。
近鉄藤井寺駅で降りて商店街のアーケードを抜けるとすぐにお寺の入り口となります。
天平の夢いまだ醒めず
それにしても、これは実際に見てみないとなかなか実感しづらいほどに「異形の仏」です。
千手観音というのは、その千本の手でもって、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする慈悲と力の広大さを表していると言われています。しかし、実際に千の手を造形されている仏様は少なくて、この葛井寺の千手観音はその数少ない実際に千の手を持つ仏です。
しかし、この仏とじっと向き合っていると、さらに千の手だけでなく頭の上に十一面を戴いていることにも気づきます。
つまり、この仏は千手観音であると同時に十一面観音でもあるのです。
さらに、今はごく僅かしか残っていないのですが、昔はその千の手全てに仏の目が書き込まれていたそうなのです。
ですから、この葛井寺の観音は正式には「十一面千手千眼観音」と言うことになるそうなのです。
さらには、千手観音のお約束として、その千の手には様々な「持物」が配されています。
持物と言うのは、それによって仏の種類が分かるというのが一般的です。
例えば、薬師如来は病を治すための「薬壺」を持っています。
地蔵菩薩は自らが苦しむ人のところに出向いて救うという意味で錫杖を持っています。
そして、明王等は煩悩を断ち切るための宝剣を持っていたりします。
ですから、手首から先が失われたことでどんな持物を持っていたのかが特定できないために、仏の種類を特定できない場合もあります。
しかし、千手観音はその千の手にあらゆる持物を持っているのが特徴です。
葛井寺の千手観音の手にも、財宝や知恵をえたり、ありとあらゆる病を治したり、悪や煩悩を絶ったり、果ては良き友や従者を得たり、晴れがましい官職を得たるするのに役立つといわれる持物までもが握られているのです。
その時に、なるほどこれが「天平の夢」かと思いました。
この盛れるだけ盛った、天こ盛りの異形な姿こそが天平の夢なのでしょう。そして、この仏が聖武天皇と深い結びつきがあることを知ったときに、これは形こそ違え、その精神の有り様は奈良の大仏、「毘盧遮那仏」となんらかわりないことに気づくのです。
そこにあるのは、無邪気で厚かましいまでの仏への期待です。
そして、仏もまたその厚かましいまでの無邪気さを具現化するために、片方は真数千手という異形の姿となり、他方は異形の大きさとなるのです。
そして、それこそがまさに「天平の夢」だったのです。
しかし、夢は醒めます。
毘盧遮那仏が完成したときは大いに盛り上がったでしょうが、それで厳しい社会の現実は何も変わらないことはすぐに気づくはずです。
それ故に、総国分寺である東大寺は生き残っても各地の国分寺の大部分は跡形もなく消えていきました。
また、千本の手でもって、どのような衆生をも漏らさず救済するという千手観音も、その持物が象徴するような現世利益だけでは維持できなくなって、やがて西国三十三カ所巡礼という別のシステムの中で生き残っていくここになります。
それが、室生寺の十一面観音のような平安初期の貞観仏であれば、その夢は明らかに醒めきっています。
彼女のどこか耐えているような、拗ねているような面差しからは、そうそう何もかも頼られても私も困っちゃうのよね!と言う声が聞こえてきそうです。
そして、その美しい少女の顔の後ろに回ってみれば、そこでは「大笑面」が人の愚かさを大きな口を開けて笑っているのです。
それは、表だけを見ていては気づかない、拗ねてるだけでない、祈る人の心の底を見透かすような怖さも合わせ持った仏なのです。
それと比べると、この葛井寺の千手観音はじっと対面していると、その姿の異形さとは裏腹に実に優しく穏やかな面立ちであることに気づかされます。その優しさからは己に課せられた重みをしっかりと受け入れる覚悟のようなものが伝わってきます。
それ故にでしょうか、私がぶしつけにこの仏をじろじろと眺めまわしている横で、ひたすら祈りを捧げつつづける若い女性がいました。
彼女がそこで何を祈っていたかは分かりませんが、それでもこの千手観音ならばいまだ天平の夢は醒めず、しっかりと聞き入れてくれそうな強さと優しさを感じました。