白鳳仏から天平仏への分岐点は言うまでもなく平城遷都です。
古代国家の形が整い、仏教は現世利益、特に国家鎮護の役割が期待されました。その象徴が言うまでもなく東大寺の毘盧遮那仏であるのですが、天平の仏の特徴は無邪気なまでの仏への信頼が反映していることです。
あの毘盧遮那仏の巨大さは、裏返してみればその様な信頼の大きさを表したものだと言えます。
そして、その様な無邪気なまでの信頼が明け透けに形象化されている天平仏の典型が大阪(藤井寺市)葛井寺の千手観音です。
この千手観音は一切の手抜きなしに千の手が造形されており、その手には千の目が描かれ頭には11の面を戴いているという「十一面千手千眼観音」です。
そして、その手には人々の願いを叶えるためのありとあらゆる持物が握られ、さらには本来は地蔵だけが持つ錫杖も持って救いの必要な人のもとに出向いてくれるというのです。
この無邪気なまでの厚かましさに裏打ちされた仏への信頼こそが天平仏の特徴です。
その様な仏が「国家事業」として大量に作られるようになったのが天平という時代でした。
そして、その様な厚かましさが強い説得力を持つためには、そんじょそこらの仏とは違う理想的な姿が求められたのです。
そこで必要だったのは躍動感に満ちた白鳳の仏ではなく、理想が具現化されて、人々のあらゆる願いを叶えてくれると信じられるような仏の姿です。
その理想を実現するためには、より高度の形象が求められます。
金銅製や木彫では表現できなかったより高いレベルでの理想的な姿が造形できる技法が求められるのです。
それが「脱活乾漆」という技法です。
土で塑像を作り、その上に漆を浸した布を何重にも巻き付けて形を整え、最後には内部の塑像を散りだして張りぼての像にします。
この技法の優れているところは、漆に浸した布を貼り付けていく過程で、漆の高い粘着性を利用して仏の姿を理想的な形に整えられることです。このような微調整は金銅仏ではまず不可能ですし、木彫でもよほどの技術がなければ難しいです。
しかし、漆を使ったこの技法ならそれは可能です。
そして、乾燥すれば充分な強度を保つことも出来ます。
おそらく、仏師は布を貼り付けていく過程で何度も理想の姿にチャレンジし、さらには施主の意向も反映しながら仕上げていったのでしょう。
そして、その様な高い技術は、人の姿を生きているかの如くに造形することも可能としました。
その典型が唐招提寺の鑑真和上像であり、一説によれば光明皇后が亡き子の姿を偲んで作らせたと想像されている興福寺の八部衆です。
特に、少年の面影で制作された
などは1才の誕生日を前になくなった基王の成長していったであろう姿を刻み込んだものではないかという説もあります。
また、この技法は巨大な仏像を制作するのにも適していました。
唐招提寺の盧舎邦仏像や東大寺法華堂の不空羂索観音像などは、巨大でありながら理想的な古典美の典型でもあります。
さらには、漆が乾燥するには時間がかかりますから、仏師は乾燥させている間は手持ちぶさたとなります。
ですから、国家から大量の仏像制作の依頼があったこの時代であれば、同時並行でいくつもの仏像制作が可能だったはずです。仏師はより多くの経験を重ねることが出来たのです。
そして、その様な経験の蓄積の中で、天平の仏達は理想的な古典美の集大成とも言うべき姿を獲得していくのです。
と言うことで、この「脱活乾漆」という技法はいいことばかりのようなのですが、一つだけ欠点がありました。
それは、漆が乾燥してからひび割れることを防ぐためには不純物の少ない最高級の漆を使う必要があったことです。そして、その様な漆は貴金属と変わらぬほどの高値で金と等価で取引されました。つまりは、布に漆を染み込ませて何重にも張り重ねていくというのは、黄金で仏像を作るのと変わらぬ費用がかかったのです。
ですから、「脱活乾漆」という技法で仏を作るのは個人レベルの発願では不可能であり、基本的には国家事業として行わなければ作れなかったのです。
阿修羅像を含む興福寺金堂の仏像群も、光明皇后が亡き母の菩提を弔うという「個人的目的」で作られたのですが、その費用は皇后のための国家予算から支出されました。
何となくどこかの国の首相夫人を思わせるような話ですが、つまりはそれほど膨大な費用がかかるのが「脱活乾漆」という技法なのです。