木芯乾漆像の登場
「脱活乾漆」という技法で仏像を制作するには大変な資金を必要とします。その資金をまかなうためには、それが「国家事業」として推進されることが不可欠の条件でした。どれほどのお金持ちであっても、個人レベルの資産で簡単に作れるようなものではなかったからです。
阿修羅像を含む興福寺金堂の仏像群のように、光明皇后が亡き母の菩提を弔うという「個人的目的」で作られたものであっても、その費用は皇后のための国家予算から支出される必要があったのです。
そして、そのような「高価な仏像」が国家事業として大量に生産された背景には、仏教を国家鎮護の柱として中央集権的な国家作りを進めた聖武天皇の存在がありました。
それは、あどけなくも無邪気なまでの仏への信頼だったのですが、その「天平の夢」は聖武天皇の死に伴って次第に醒めていきます。
そして、夢が覚めれば、国家事業として膨大な資金を投入して仏像を作っている場合ではないことに気がつくようになるのです。
結果として仏像制作を担当していた役所は国家機構から切り離され、自活の道を探る必要に迫られました。
そこで登場するのが、より少ない資金で制作が可能な「木芯乾漆」という技法でだったのです。
「脱活乾漆」では漆を浸した布を何重にも巻き付けていく必要がありました。
何故ならば、内部の土で作った塑像を最後は取り出して張りぼてにするからです。仏像の強度を維持するためには等身大の立像では10回くらい布を貼り付ける必要があったのです。
繰り返しますが、仏像制作に使われる上質の漆は金と同じ価値がありましたから、それは黄金製の仏像を作るのと同じだけの資金が必要となったのです。
それに対して、新しく開発された「木芯乾漆」という技法では、土ではなくて木彫で仏像の原型を作り、その上に布を巻き付けていきます。
この技法が実用レベルになった背景には木彫技術の発展がありました。
原型の木彫像を精緻に掘り出すことが出来れば、布には薄く漆を塗って1~2回重ねれば形を整えることが出来ます。
内部の木彫は、「脱活乾漆」の土の塑像のように完成してから取り出すのではなくて内刳りを施すだけですから、強度の問題は考慮する必要がないのです。
そして、原型となる内部の木彫も、完成してから多少のひび割れなどが生じても上から布を貼り付けるので、良材を選ばないという利点もありました。
「脱活乾漆」という技法は天平仏の理想的な古典美を実現したのですが、その理想のクオリティを下げることなく大幅なコストダウンを実現したのが「木芯乾漆」という技法だったのです。
そして、仏像制作は国家事業から個人の信仰に基づいたものへと転換していくのです。
木芯乾漆像の傑作
この「木芯乾漆」という技法でおそらくは最も早い時期に制作された仏像が奈良県桜井市の聖林寺に祀られている十一面観音像です。
この十一面観音は天武天皇の孫である智努王が願主だと推測されていますので、国家事業から個人の信仰に基づく仏像制作へと転換していく過程を体現した観音像です。
国宝指定をされている十一面観音は七体なのですが、その中でも最も人知を越えた気高さを感じるのが聖林寺の十一面観音です。
それを一言で言えば「偉丈夫」と言うことになるのでしょうが、その姿の立派さは、これまた写真だけでは伝わりにくいものがあります。
その伝わりにくい一番の理由は、その二メートル近い大きさに起因します。
見れば見るほど美しく立派な仏です。そして、そこには下らぬ人の思念などははねつけてしまう強さがあります。
そして、この十一面観音とほぼ相似形の仏像が京都京田辺市の観音寺に祀られているのです。
こちらも国宝指定を受けた「木芯乾漆像」なのですが、そのそっくりのポロポーションから、おそらくは同じ仏師によって(おそらくは興福寺系の工房)で制作されたものと考えられています。
聖林寺の十一面観音と比較すると表面の剥落がそれほど進んでいないので、より柔和で優しい表情が魅力的な観音です。
唐招提寺の木芯乾漆千手観音立像
もう一つこの技法による優れた作成が唐招提寺の千手観音立像です。
この金堂に祀られている毘盧遮那仏、薬師如来、千手観音は天平の夢が覚めつつあった時期に作られたと思われるのですが、本尊の毘盧遮那仏は「脱活乾漆」で作られています。
さすがは、鑑真和上を招いて作られたお寺だけのことはあります。しかし、その両サイドの薬師如来と千手観音は「木芯乾漆像」です。
興福寺や東大寺の諸像と較べると、夢は醒めつつあり、より厳しい表情になってきているのが特徴です。