よくぞ残った天平の塑像
塑像とは粘土をこねて造った像のことです。これを焼成して焼き固めればテラコッタになるのですが、奈良時代の塑像は乾燥させて固めただけです。
このような塑像は極めて壊れやすいので、一般的には金銅仏や脱活乾漆像の原型として用いられることが多いのですが、天平時代にはこの手法による仏像がたくさん作られました。
特に有名なのは以下の3点です。
- 新薬師寺:十二神将立像
- 東大寺法華堂:執金剛神立像、日光菩薩像・月光菩薩立像、弁才天・吉祥天立像
- 東大寺戒壇院:四天王立像
始めは心木に藁縄を巻き付けて、その上に粒子の粗い粘土で全体の大まかなプロポーションを作ります。そして、その上に細かい粒子の粘土を使ってへらや指で細かい部分の仕上げを行います。
古典的な均衡で造形された全体的なポロポーションと細部の繊細でリアルな仕上げをしていく上で、粘土は極めて扱いやすい素材でした。
その土の表面に彩色をしていくことも容易でした。
そして、制作コストも乾漆像と較べれば比較にならないくらい安かったことでしょう。
唯一の欠点は、脆くて壊れやすかったことです。(^^;
ですから、肝心要の本尊が壊れやすかったのでは話にならないので、本尊に関しては壊れにくい乾漆像や木彫像で制作しても、それに付き従う仏達はコストカットのために塑像として制作することも多かったようです。
新薬師寺の本尊である薬師如来は平安期の木彫による像ですが、それを取り巻く12神将像は全て塑像です。
東大寺法華堂のように、本尊である「不空羂索観音」だけでなく四天王像や金剛力士立像、梵天・帝釈天立像までもが脱活乾漆で制作されていた方が異例なのです。それは裏返せば、これらの仏像がまさに国家事業として制作されたことを表しています。
しかし、それでも日光・月光両菩薩や吉祥天・弁才天立像、執金剛神立像等は塑像です。
しかし、平安時代にはいると木彫の技術が飛躍的に進化します。
その背景にはあまりにも高価な脱活乾漆像に変わって木芯乾漆像が主流になっていったことがあげられます。
そして、時代が下がるにつれて、木芯乾漆像といっても原型となる内部の木彫だけでほとんど完成していて、漆を浸した布は薄皮のように一枚だけ貼っているだけのスタイルへと変わっていきます。
それは、裏返せば、それだけ漆が貴重で高価であったと言うことで、その漆の使用量を限界まで少なくするためには、原型となる木彫の完成度を上げる必要があったのです。
そして、この要求が必然的に木彫技術の進歩を促し、最後は内部の原型がそこまで完成しているのならそのままでいいではないかと言うようになるのです。
つまりは、大まかに言えば、「脱活乾漆像」→「木芯乾漆像」→「木彫像」というように仏像の制作方法の主流は変遷していくのです。
そして、平安期に入って、仏像制作の主流が木彫になってくると、良質の木材が大量に産出されるこの国では、コストカットのために粘土を素材としてを選ぶ意味がなくなっていくのです。
優れた塑像が奈良時代に集中するのはその様な理由によります。
しかしながら、そう言う壊れやすい塑像の仏達が1200年の時を越えて保存されたというのは、まさに一つの奇蹟と言えます。
特に東大寺はその歴史において3度の大火を経験しています。
大仏像のように、その度に消失しては再建されたものもありますが、そう言う特別な仏像以外は消失すればそのまま永遠に失われてしまったはずです。
たとえば、東大寺戒壇院の四天王立像はもとは金銅製の像であったと伝えられています。しかし、大火によって消失し、現在の四天王像は法華堂に祀られていたものを移動したのではないかと考えられています。
つまりは、金銅製の仏は持ち出せなくても、それ以外の像に関しては可能な限りは運び出して護ってきたということです。
とは言え、脆くて壊れやすい塑像を持ち出すのは極めて困難であったと想像されます。
しかし、大火による危機を何度もかいくぐって1200年を超える時を経て現在まで残されてきたのは、その背景に深い信仰があったからでしょう。その様な信仰は間違いなく奇蹟を生むものです。
新薬師寺の十二神将立像
修学旅行の生徒や外国人観光客で賑わう東大寺のすぐ近くにあるこのお寺はいつも静かです。
しかし、東大寺の大仏を見て歓声を上げるくらいならば、この十二神将立像を拝見した方がはるかに深い感銘を与えてくれるでしょう。
等身大よりはやや小さめの12の塑像が本尊である薬師如来のまわりを取り囲んでいます。
それは疑いもなく、究極の完成度でもって仕上げられた天平のフィギュア像です。細部のリアリティよりは今にも動き出しそうなダイナミックな造形が見事です。
ですから、それらをこのお堂から外に持ち出して博物館で横並びに展示してしまっては、この素晴らしさは半分も伝わらないでしょう。
東大寺法華堂の諸像
本尊の脇侍として配置されていた有名な日光菩薩像と月光菩薩立像は、現在は東大寺ミュージアムに移されています。
地震などがあって転倒して破損すると取り返しがつかないというのが理由のようですが、ミュージアムでは四月堂の本尊である千手観音の脇侍というスタイルで展示されています。その千手観音は平安初期の木彫像で、天平の古典的均衡とは全く異なる貞観様式の仏なので、その脇に天平の典型ともいうべき両菩薩が配されているのはいかにも違和感がありすぎです。
とは言え、天平仏が追求した理想の造形の典型がこの日光、月光の両菩薩ですから、それを間近でじっくり拝観できるというのは有り難いことです。
また、ミュージアムの別室には弁才天・吉祥天立像(塑像)も移されていますから、法華堂に残っているのは本尊の不空羂索観音(脱活乾漆像)と二体の金剛神立像(脱活乾漆像)、四体の四天王立像(脱活乾漆像)、二体の梵天・帝釈天立像(脱活乾漆像)の計九体です。
とはいえ、一つ一つの像は全て巨大なので、見た感じは堂内にぎっしりとならんでいるという感じで圧巻です。
なお、執金剛神立像(塑像)は秘仏として通常は奥にしまい込まれています。
しかしながら、東大寺に来ても大仏を拝み、二月堂から奈良の町並みを見下ろして帰るという人が多く、その横にある法華堂を拝観する人は多くはありません。
実に勿体ない話です。
ミュージアムと大仏殿のセット券が800円、法華堂は500円の計1300円ですから、時間が許せばこの3カ所は是非拝観したいものです。
東大寺戒壇院の四天王立像
修学旅行の生徒達も、押し寄せる外国人旅行客もここまで足を伸ばすことはほとんどありません。
京都と変わらないほどの賑わいをみせる大仏殿の前とは違って、同じお寺の敷地内にあるにも関わらず、この戒壇院の周辺は本当に静かです。
そして、別途500円を払ってこの四天王立像を見ようという人はさらに少ないので、私の経験ではいつもゆっくりと相対することが出来ます。
東大寺の塑像は、新薬師寺の十二神将立像と較べると細部の仕上げが丁寧でスタティックな印象を受けるのですが、それはこの戒壇院の四天王立像も同じです。
この四天王立像も、もとは法華堂に配されていたことが分かってきたので、ほぼ同じ時期に同じ工房で作られたものだと思われます。
ただし、この四天王立像はほぼ等身大なので、もしも法華堂に置かれていればその他の巨大な想像に埋もれてしまって、その素晴らしさが見過ごされてたかもしれません。
その意味では、静かな戒壇院の四隅に配されて存在感を示せているのは幸せだったのかもしれません。