SP盤と言えばよく「竹屋の火事」と言われたものです。
「竹屋の火事」というのは本来は「怒ってぽんぽんとものを言うさま」を著す慣用句なのですが、SP盤につきもののパチパチノイズのことを連想させるので、そんな言われ方をしたものでした。
私もかつては、昔の人はよくぞこんな酷いノイズの奥から聞こえてくる音を我慢してよくぞ音楽を楽しめたものだなと同情したものでした。そして、そう言う思いを持っている方は今もって少なくないと思われます。なにしろ、SP盤どころかモノラル録音のLP盤でさえ「音が悪い「音が古い」と言って聞こうとしない人もいるほどですから・・・。(--;
わたしが、その様なSP盤に対する「誤解」を解く切っ掛けになったのは、今から10数年前に然るべき装置で保存状態のよいSP盤を聞かせてもらったことでした。いわゆる「蓄音機」ではなく、SP盤を再生可能なアナログシステムで聞かせてもらったのですが、その「音の良さ」には度肝を抜かれました。
そして、そういうSP盤のCD復刻も昔は「竹屋の火事」がほとんどだったのですが、最近は出来る限り保存状態のよいSP盤か、もしくは金属原盤が残っている場合はその原盤から極めて良心的に復刻されているCDが増えてきました。そうなると、かつて聞かせてもらったような特別なアナログシステムを構築しなくても、良質なデジタル再生環境があればSP盤が持つ実力と魅力を十分に楽しめるようになってきました。
ただし、要は復刻に使った音源の保存状態です。
保存状態の悪い音源を使ってノイズ・リダクションなどをしている復刻盤は、一聴するとノイズも少なくて聞きやすくなっている様な気がするのですが、肝心要の演奏が持つ魅力は完全にスポイルされてしまっています。つまりは、ノイズと一緒に音楽的に美味しい部分までリダクションしてしまっているのです。
最近聞いたSP盤の復刻盤では、1930年代のコルトーやアドルフ・ブッシュの録音が極めて良心的な仕事ぶりでた。
著作権法の改訂で新しくパブリック・ドメインとして追加される音源がなくなったことで、そう言う古い録音もゆっくりと聞き直す余裕が出来てきました。そして、そう言う古い良質な録音を聞いていると、パブリック・ドメインにはならなくなった1968年以降の録音の中で、そう言うSP盤時代の優れた演奏と録音を上回れるような音源はそれほど多くはないかもしれないと思わせられます。
少なくとも、良質な復刻盤であるならば音質的に何の言い訳もしなくて音楽を楽しむことが出来ます。
そして、そう言う魅力の背景として忘れてはいけないのは、そこで繰り広げられているオンリー・ワンとも言うべき演奏の素晴らしさです。
考えてみれば、30年代のコルトーやアドルフ・ブッシュ、そしてプシホダなどの演奏を聞くと、それに変わりうるような魅力を持った演奏というものはほとんど存在しないことに気づかされます。そして、そう言う音楽を聞いていてふと気づいたのは、彼らの時代は基本的に「ニャンコ」の時代であったと言うことです。
そして、その言い方になぞらえるならば、現在は基本的に「ワンコ」の時代です。
確かに「ワンコ」というのは常に忠実であり、主人からの指示に対して従順です。主人の指示に忠実な「ワンコ」は賢い存在ではあるのですが、あまりにも賢すぎる「ワンコ」というのは時には痛々しさを覚えてしまいます。
作曲家の原典が絶対であり、その指示に忠実に従って本来のあるべき姿を求めて眦決して演奏にのぞむ姿は確かに立派ですし、それによって成し遂げられた業績の偉大さを否定するつもりはありません。
しかし、時代はそう言う「けなげさ」に疲れ切ってきたのか、気がつけば今は「ニャンコ」の時代です。
私は生まれたときから身近にいつもワンコとニャンコガいました。そして、時々ニャンコガいなくなることがあってもワンコがいなくなることはありませんでした。ですから、あ
なたは「ワンコ派」ですか「ニャンコ派」ですかと聞かれれば、躊躇わず「私はワンコ派」ですと答えてきました。そして、クラシック音楽を聞き始めて最初に感銘を受けたのがジョージ・セルだったのですから、おそらくは本質的には「ワンコ」型の人間だと思うのです。
しかし、最近になって、周囲の影響もあってか「ニャンコ」と触れ合う機会が多くなってきて、なるほどニャンコも良いものだと思うようになってきました。
ニャンコというのは人の言うことを聞きません。それこそ、徹頭徹尾、見事なまでに自己中な生き物です。
彼らはいつも自由で気ままで、誰に媚びることもなく、そして時には「気高さ」を感じさせられます。
その誰にも媚びず、気高い姿は、まさにSP盤時代の巨匠たちの姿そのものです。
そして、世の中がワンコ型の演奏で埋めつくされている今という時代に、SP盤時代のニャンコたちに出会うと言うことはこの上もない喜びなのです。
そして、そこにこそSP盤が持つ魅力があるといえるような気がするのです。
私的にはジョージ・セルは結構ニャンコだと思いますけどね。
ベートーヴェンの第5の第4楽章なんかを効くと「え?、ここで故意にそんなにテンポを緩めるの?」とか、ドキっとする場面が多いです。
これがシューベルトのロザムンデだったり、ビゼーのファランドールだったりすると、もともとテンポが暴れてなんぼな所があるので、特に違和感は無いのですが。
ちなみに個人的にワンコだなあと思うのは例えばルドルフ・ケンペ、彼のスメタナの「売られた花嫁」なんかは、そりゃもうまるでメトロノームのようです。
ちなみに私はニャンコ派、「フランクの交響曲はトーマス・ビーチャムでなければならぬ!」と公言するほど、『かっちりしていない演奏(笑)』が好きですね、『遅い演奏』は大嫌いなのですが(ここら辺の矛盾がニャンコたる所以かも?。