最近はウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートにはほとんど興味を持てないのでスルーする事も多かったのですが、今年は指揮者がムーティと言うことで久しぶりにじっくりとテレビの前に座ってみました。
そして、何の事前情報もチェックしていなかったので、空席の会場を見たときは一瞬声を失ってしまいました。そうです、今年は無観客によるニューイヤー・コンサートだったのです。
基本的にお祭り騒ぎのニューーイヤー・コンサートで無観客というのは、その状況自体が論理矛盾をはらんだ存在なので、その光景は異様と言うしかないものでした。
しかし、演奏は近年稀に見るほどの素晴らしいものでした。最後のラデツキー行進曲を聴いたときには不覚にも涙が溢れてしまいました。
最近のウィーンフィルに関しては否定的なことばかり書いているのですが、今年のニューイヤー・コンサートを聴いて、やる気になればやれるじゃないか、さすがはウィーン・フィルだと心底感動しました。
そして、その功績の多くは指揮者のムーティに負っているのでしょう。
考えてみれば、彼は最後に生き残ったただ一人の「独裁者型指揮者」かもしれません。そして、あらためて音楽に「民主主義」は必要ないという思いを強くしました。
ムーティは自分の要求に応えられないオーケストラには一切容赦をしない指揮者です。そして、そう言うムーティの要求にあの性悪のオーケストラが必死に応えている姿は一種の奇蹟を見る思いがしました。
そこには、一切の曖昧さを排除するだけでなく、雰囲気だけで弾きとばすことのない精緻な演奏がありました。しかし、それと同時にウィンナー・ワルツが持っている軽みのようなものも見事に表現されていました。
ただし、これはコロナ禍と言う異常な状況の中こそ実現可能だった希有の出来事だったのかもしれません。
あの大戦下におけるフルトヴェングラーの演奏を平和な時代に再現することは不可能でしょう。もしかしたら、それと同じほどに困難な状況下でのコンサートだったのかもしれません。
しかし、これでウィーン・フィルも覚醒するのかと思いきや、来年の指揮者はバレンボイムに決まったそうで、ガックリと来ました。
来年は何があってもニューイヤー・コンサートを聴くことはないでしょう。
やっぱり、あいつらは変わらんのか・・・。
今年のニューイヤーコンサートの見方は人それぞれですね。
私は聴衆のいない、演奏するだけのニューイヤーコンサートは違和感があり
直ぐテレビを消しました。
ウィーンフィルがムーティの要求に応えているのも、ウィーンフィルとムーティの
付き合いは長いですから、お互いの手の内を知り尽くしていることが
大きいでしょう。それに最近はウィーンフィルといえども収入が激減していて
ニューイヤーコンサートは一番の稼ぎ時ですから。
特にドル箱の日本公演できないから。
全く同感です! 本当に素晴らしい演奏でした! このところ10分もかければ消してしまうニューイヤーコンサートでしたが、これは永久保存。コロナ、ムーティの80歳記念、無観客、いろんな特別な状況があっての名演ですね。
途中の楽員へのインタビューのなかで、昔ムーティがウィーンフィルに教えられたことを、今ムーティがウィーンフィルに教えてくれるという話がありました。
イタリア人のムーティが、ウィーンフィルの昔の伝統を伝えてるというところに、今のウィーンフィルの問題を見たような気もしましたが、今回の演奏を聴いて、ちょっとボタンを押せば、昔日の栄光は戻ってくるんじゃないか?って気もしました。そのボタンが、今回の演奏だったことを願います。
今年のニューイヤーコンサートは無観客という特殊な状況で行われましたが、ウィーン・フィルが張り切って演奏している様子がひしひしと伝わってきました。観客がいれば、音が幾分観客の衣服等に吸収されてしまうものですが、今回はお客さんがいないせいか、音の鳴りがダイレクトに感じられたのだと思います。
あけましておめでとうございます。
観客ないのも最初は新鮮でしたが、拍手でラデツキー始まらないのに違和感が・・・
ところで、MP3ライブラリーに、セル指揮のチャイコフスキーの交響曲がないのは理由があるのでしょうか? 今月はチャイ4ばかり20種類くらい聴きまくってるんです。
遅ればせながら、再度コメントしたいと思います。
今年のニューイヤーコンサートの中で、曲目で興味があったのは、後半部分で演奏された、コムザークの「バーデン娘」でした。実はこの曲、クナッパーツブッシュが指揮したウィンナワルツのレコードに入っていたのです。そしてこの曲の後半で初めの主題が再現される部分で、金管楽器が思い切った咆哮を見せるのですが、この部分を例の音楽評論家U氏が「悪魔の高笑い」と評しているのです。この表現はともかくとして、ムーティの指揮においても十分な迫力を見せていて、印象に残りました。