醒めた人間認識

すっかり暖かくなり、、おまけにお休みだったのでワンコをつれて朝からのんびりとお散歩をしました。(昼から雨だとも言っていますから)
 公園の桜はまだ咲いてはいないかな?・・・と、をあちこち眺めながらいつもの散歩では足を伸ばさないようなところにまで出かけました。
 そこで一つ気になったことがあります。
 それは、自治会の役員をされている方々の家に青いステッカーが貼ってあるのです。そこには「不審者と思ったら迷わずに110番」と書いてあります。注意しながら見ていくと、どうやら班長さんのレベルにまでそのステッカーはいきわたっているようで、かなり目立ちます。
 一見すると何の問題もないようなステッカーですが、よく考えてみるといろいろと気になることが出てきます。
 まず第1に、何をもって「不審者」と認定するのでしょうか。
 例えば、近所に祝日になると日の丸を掲げるお家があって、そこの親父さんはよく道に出ては木刀を振り回しています。私の感覚ではかなり「あぶない」と思うのですが、さて、その木刀を振り回しているのを見て「不審者」として通報したらどうなるのでしょうか。
 例えば、近所に見知らぬ外国人が移り住んできたと仮定しましょう。
 その人たちは何の悪いこともせずに生活しているにも関わらず、なかには外国人だというだけで、「彼らはいつ何時、何をしでかすかもしれない」ということで「不審者」として通報する方がいるだろう事は容易に想像できます。
 例えば、近所のヤンキーが仲間を連れて家の前でたむろをしていたとしたらどうなるでしょう。
 おそらくは、それをもって「不審者」として通報する方がおられるだろうことも容易に想像できます。
 それでは、そういう通報を受けて駆けつけた警察はどの様に対応するつもりなのでしょうか?おそらく日本の法律では「不審者」の定義などというのは存在しないでしょうから、考えられる対応は二つです。
 一つは、法と条例に従って職務を遂行するのが戦後のミンシュ警察の原則ですから、その原則に忠実であれば、その不審者が既存の法律に明らかに違反している現行犯でない限り、結局は「何もできない」という対応です。
 もう一つは、「何もできない」では「ステッカーを配布した意味がない」と思うようなら、ミンシュ警察の原則をかなぐり捨てて、現場警察官による恣意的判断に基づく超法規的措置を発動するかです。
 昔懐かしい「オイコラ警察」の復活です。
 前者であれば通報するだけ時間の無駄ですし、後者であれば恐ろしい話です。
 しかし、そういうことが分かっていて警察がその様なステッカーを自治会に配布するというのは、どういう意図があるのでしょうか。
 まさか、前者のように、市民から不審者の通報があっても警察は何できないことを実地に教えるためにその様なステッカーを配布しているとは思えませんから、市民からの通報を錦の御旗に超法規的措置をなし崩し的に現実のものにしようとしているのでしょうか。


 「不審者」というのは言葉をかえれば、異質な存在と言うことです。「不審者を見れば迷わずに110番」というステッカーは言葉をかえれば「異質な存在は迷わずに排除しましょう」と言うことです。
 共生の時代が叫ばれ、「みんなちがってみんないい」という金子みすずの詩の一節が決まり文句のように引用されても、一皮むけばその下には排除の論理がむき出しになっているののが日本の社会です。
 これを一般的に「島国根性」と言って日本の専売特許のように言う人がいますが、こういう精神の有り様は何も日本独特のものではありません。私が見るところ、ヨーロッパの人たちは、その偏狭性と言うことでは決して日本人に劣るものではないと思います。
 ぞして、そういう偏狭性はすぐにいびつなナショナリズムと結びついて、日本人でさえ理解しづらいほどの「愚かな戦争」を彼らは繰り返してきました。
 しかし、彼らが賢いのは、そういう愚かな歴史の積み重ねの中で、自らの中にそういう偏狭性が抜きがたく存在していることを承知するようになったことです。絶対に不可能と言われた「通貨の統合」を曲がりなりにも実現したことは、その様な「賢さ」があったればこそでしょう。
 ですから、彼らの人間関係の基本にあるのは「人間とはどれだけ話し合っても分かり合えないものだ」という醒めた認識であるように感じます。ところが、日本で共生の時代を叫ぶ人たちのポリシーはその正反対のところにあります。
 彼らのポリシーは、「人間は話し合い、交流を深めれば必ず理解できるものだ」という麗しいものです。
 さて、あなたはどちらの立場に立ちますか?
 私は迷わずに「人間とはどれだけ話し合っても分かり合えないものだ」という立場をとります。
 ただし、これには重要な認識がもう一つ付け加わります。
 それは、「そういう理解し合えない人間が、いやでも一つの社会を形成していかないと生きていけないのが人間という存在だ」ということです。
 ですから、この認識の違いは煎じ詰めれば、どのようにして社会を形成していくのかという方法論に帰着します。
 前者は、「どうせ理解し合えないのだから、お互いが利害調整を積み重ねて、最終的にはそれぞれが半歩ずつ譲り合って、不満はあっても折り合いをつけながらやっていきましょう」というスタンスです。
 後者は、「話し合えば分かり合えるのだから、話し合いを続けてみんなが納得できる解決法を探し出し、最後はみんな仲良く手をつなぎあって暮らしていこう」というスタンスです。
 人間を半世紀近くもやっていると、後者のスタンスはとても麗しいように思えますが、その背後にとんでもない危険性をはらませていることに気づきます。
 それは、「人間なら話し合えば分かる」という論理は、「どれだけ話し合いを続け交流を重ねても共通の理解点が見いだせなければ、そういう連中は人間ではない」という排他主義に簡単に変容してしまう危険性です。
 もっと俗な言い方をすれば、「これだけ情理を尽くし、手をさしのべているのに、あいつら人間ちゃうで!」というふうになってしまうのです。昨今の北朝鮮報道を眺めていると、この危険な側面が顕わになっているように思えてしかたがりません。
 それに対して、前者の立場はどう考えても麗しいとも思えませんし、どちらかというと寒々しいほどに醒めた感性ですが、基本的には足し算と引き算の論理ですから、何かのきっかけで後者のように「全てが0」になってしまうということは少ないスタンスです。
 お互いの関係がご破算になったときに愚かな戦争の引き金が引かれることを何度も経験してきたヨーロッパ人の知恵でしょうか。
 そして、そういうしたたかなスタンスから見れば、「不審者見れば迷わずに110番」というステッカーにいささかの違和感を感じることもお許しいただけるのではないでしょうか。

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