今週の一枚(7) ヨハン・シュトラウス2世:ワルツ「春の声」Op.410

節分と言えば今では2月初めの立春の前日と決まっています。
しかし、もともとは「節分=季節を分ける」なので、立春・立夏・立秋・立冬の前日のことを「節分」と呼んでいました。それが、立春の前日だけが特別扱いされるようになったのは江戸時代のことらしいです。
ちなみに、旧暦の2月3日は新暦では3月3日あたりです。
まさに、季節は冬から春へと大きく一歩を踏み出す時期なのです。

冬の寒さと飢えは、しばしば人々の命を奪いました。ところが、江戸中期になると、冬の寒さと飢えで一族全滅と言うことはめったに起こらなくなりました。
おかしなパラドックスですが、多くの人がある程度安定して冬の寒さを乗り越えられるようになると、冬から春への境目に位置する「節分」はかけがえのない意味を持つようになります。

冬の寒さで人がばたばた死んでいるような時代だと、冬が終わる頃の人々は敗残兵の群れみたいなものです。死んでいった者は間違いなく地獄だったでしょうが、生き残った者にとってもそれは地獄の先延ばしでしかないのです。そんな人々にとって節分などと言うものは何の意味も持ちません。

ところが、冬の寒さと飢えで多くの人が命を落とすようなことはなくなれば、冬の終わりは喜ばしいものへと変化します。
もちろん、幼い子どもや年老いたものにとっては冬は厳しい季節であったことには変わりはありません。病の身であれば冬の寒さとひもじさは己の命を奪いに来る「鬼」と映ったことでしょう。
それでも、毎年、多くの人が何とか無事に冬を乗り越えられるようになることで、冬の終わりの喜びは今からは想像できないほどに大きなものだったはずです。

そう思えば、「鬼は外」という節分のかけ声には切実さが宿っていました。「福は内」というかけ声にも切実な願いがこもっていました。

時代は流れ冬はウィンタースポーツの時期という程度の意味しか持たなくなりました。その相貌のどこを探しても鬼の欠片すらも見つけることはできません。
よく「昔の人は偉かった」と言いますが、今の人はもっと偉いのです。つまりは、鬼を退治しちゃったわけです。
結果として、鬼はそのリアルな姿を失い戯画化することになります。そんな漫画チックな鬼に子どもたちが「鬼は外」と言って豆を投げつける風景はのどかです。

しかし、そんな光景を眺めながら、私たちは「冬の鬼」を退治するかわりに、もしかしたらもっと凶暴で邪悪な「鬼」を招き入れてしまったのではないかという恐れがふと脳裏をよぎります。
もしかしたら、鬼は外と言って力の限りに豆を投げつけるべき対象は他にいるのかもしれません。

クレメンス・クラウス指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 1952年1月録音

「春だ!春だ!ワーイ、ワーイ!!」という感じの漂う一曲を探していて、結局行き着いたのが月並みですがこの「春の声」です。
やはりクラシック音楽というのは都市の文化ですから、どうしても農民的な喜びが爆発したような土俗的雰囲気をもった音楽は少ないですね。できればストラヴィンスキーの「春の祭典」を挙げたかったのですが、彼は長生きをしたので著作権が切れるのはずっと先です。

そんなわけで、演奏の方はセルやライナーのようなスタイリッシュなワルツではなく、ウィーン的な土臭さが残っているクラウスのものを選びました。
1952年のニューイヤーコンサートでの演奏です。

1件のコメント

  1. 「春の声」優雅さと喜びが溢れている感じが好きです。私はカルロス・クライバーが好きでウィーンフィルのCDは数枚持ち合わせていますが、クレメンス・クラウスの古き良き時代を思い起こすような演奏も味がありますネ!本来のオケの響を瞑想しながら聴かせて貰いました。

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