散りゆく桜に

 ワンコを散歩させながら、今年最後の散りゆく桜を見て回ったユング君の脳裏をよぎった愚にもつかないお話です。
 梅と桜は春を代表するものとして並び称されますが、趣は随分と異なることに気づかされました。
 その違いはどこからくるのだろうかと思案を巡らせて思い当たったのが「冗長性」ということです。梅には冗長性がありません。一切の無駄を省いて、全てのものがあるべき場所に必要不可欠のものとしておさまっています。そこには、一切の虚飾をそぎ落とし、研ぎ澄まされた緊張感が支配しています。
 それに対して、桜は冗長性そのものです。あふれるばかりの花びらは全ての空間を埋め尽くし、それでもあきたらずに互いが互いに重なり合っています。そこには豊穣さが限界を超えて、もはや倦んでしまっています。
 「ねがはくは花のしたには春死なんそのきさらぎの望月の頃」
 有名な西行の和歌ですが、この「花」は言うまでもなく桜です。美に倦んだ感覚は死にとても近いものです。もし、この花が梅だとすると、感覚的にそれは「殺人事件」になってしまいます。
 この両者の違いは、花が散り始めると際だちます。
 梅はその花がひとたび散り始めると、冗長性がないがゆえに、あるべきものの欠落として認識されます。そして、その欠落がわずかなものであっても、痛々しいまでに全体の美を損ないます。凛として咲いていた梅の花が落下し始めると、そこにあるのは痛々しいまでの老醜です。
 しかし桜は、散り始めることで過剰なまでの冗長性が緩和されることによって、そこで初めて美の頂点を確保します。桜にとって己の美しさを最も誇るのは満開の時ではなく、落下しつつあるときです。桜は落下することで過剰なまでの重複から己を解放し、さらに己の周辺の空間までをも散りゆく花びらによって彩ろうとします。そして不思議なことに、その散り果ての姿を見ても「老醜」という言葉は浮かんできません。
 そう言えば、音楽家もこの「冗長性」という言葉をキイワードとして分類ができそうです。冗長性のない、もしくは乏しい作曲家と、そうでない作曲家です。
 思いをめぐらせてみると、前者の代表はモーツァルトでしょうか。
 「一つの音符があるべき場所から欠落するだけで音楽がそこなわれ、その欠落が一つの小節にまで及べば音楽全てが台無しになってしまう」
 モーツァルトほど壊れやすい音楽はありません。
 逆に後者の代表といえばマーラーでしょうか。マーラーの音楽を愛するものはその冗長性を愛さなければいけません。もし、指揮者がその冗長性を整理しにかかれば、それはもうマーラーの音楽ではなくなります。
 こうしてみると、この分類はいろんなジャンルにも適用できそうです。例えば文学の世界。ここでは、冗長性に乏しい代表は、小節の神様といわれた志賀直哉でしょうか。彼の極限までに切りつめられた文体は常に賞賛の的でした。その逆と言えば、開高健が思い浮かびます。彼ほど言葉を尽くして語り尽くした作家は他には思い当たりません。
 そして何故か、冗長性にあふれた作風は芸術としては一段低く見られる傾向があるようです。
 日本人は桜が大好きなのに、おかしな話です。

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