今週の一枚(10) チャイコフスキー:序曲「1812年」 変ホ長調 作品49

「リンゴが3個、ミカンが2個あります。あわせて何個ありますか?」と聞かれて即座に「5個です。」と答えられる子どもは、今の世の中ではとても生きやすいです。しかし、それを聞いて、「リンゴ3個にミカン2個あわせても、リンゴは3個だしミカンは2個のままだよ。何が5個になるんだろう?」などと考える子どもはとっても生きにくいです。
ここで問題になるのは抽象化という作業です。

学校の先生は子どもに分かりやすいようにと、リンゴやミカンという具体物を持ち出すのですが、その裏で、子どもたちにはそう言う具体的な属性は捨象して単なる分離物の個数という抽象化された概念に注目することを求めています。即座に「5個です」と答えられる子どもはそう言う先生の期待をすぐに理解するのですが、リンゴやミカンという具体的な属性から離れられない子どもはいつもでもそこに立ち止まることになってしまいます。

しかし、この抽象化の作業は提示される具体物の属性によっては次第に困難になっていきます。

「仲のよい友達が3人、いじめっ子が2人います。あわせて何人いますか?」
「自転車が3台、車が2台あります。あわせて何台ありますか?」
「3つの星と2つの玩具があります。あわせていくつありますか?」

おそらく、リンゴとミカンの時には元気よく5個ですと答えた子どもたちでも、どこかで疑問が生じるはずです。
それぞれの具体物が持っている属性をとりあえずは捨象して、その背後にある「本質的なもの」を抽出する抽象化という作業は極めて重要な思考方法ではあるのですが、その限界というものも見据えておかないととんでもないお笑いぐさになってしまうこともあるということです。

しかし、抽象化の対象が「分離物の個数」という分かりやすいものであればその限界も容易に見抜けるのですが、これが優劣などという価値観を伴うものになると話は非常にややこしくなります。

「リンゴとミカンではどちらが美味しいですか?」

「はい、それはミカンです。その爽やかな酸味と甘みが絶妙に混ぜ合わさった味わいはリンゴをはるかに上回ります。」

「ミカンみたいなフニャフニャの食べ物を評価する人の気持ちが分からない。リンゴのあのサクッとした食感とキリリと引き締まった味わいを知ればミカンなどはその足元にも及ばない事は容易に分かるはずだ。」

「もしもメロンという果物の存在を知っていれば、リンゴとミカンではどちらが美味しいですか?などという問いかけ自体が愚かだと言うことを知るでしょう。あの高貴で貴族的な味わいを持ったメロンの前に全ての果物はひれ伏すべきです。」

「君たちの論議は聞いているだけで悲しくなり哀れになる。名も知れぬ南海の小島にだけ自生しているブッタマゲタという果物の存在を知れば全ての論議は終焉するのです。魂がふるえ宇宙そのものが鳴動するような味わいを是非とも君たちにも味わってもらいたいものだ。」

「君がブッタマゲタに言及したことには敬意を表するよ。しかし、ごく少量日本に輸入された復刻版CDを食べただけの話だろう。ブッタマゲタの本当の素晴らしさはその小島に行って、そこに自生している初期LP盤を食べた人でなければ分からないんだよ。」

ありゃりゃ、何の話だったっけ?
ただし、自戒もこめて<(`:')<スンマセン

ドラティ指揮 ミネアポリス交響楽団 1958年4月録音

早く春が来ないかな。

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