おそらく営業上の理由だと思うのですが、あるレーベルが有力な商品をリリースすると、それに似通った録音を在庫として抱えるレーベルも時を移さずにその「似通った録音」をすぐに市場に送り出してきます。今やクラシック音楽の市場規模は決まってきていますから、有力な売れ筋商品が市場に投入されればそれだけ他の商品の売り上げを圧迫します。ですから、その売れ筋商品と似通った録音があるのならば同時にこちらも投入してレーベル全体の売り上げを維持しようと努めるのでしょう。
今のクラシック音楽の市場規模を考えればみみっちい話ではありますが、商売ともなれば鷹揚にも構えていられないのでしょう。
どちらが先に仕掛けたのかは分かりませんが、マリア・ジョアン・ピリス(ピレシュ)のボックス盤がエラートとDGで相次いでリリースされました。
よく知られているように、ピリス(最近は、ポルトガル語の発音ではピレシュの方が近いと言うことを鬼の首を取ったようにいい回っている人がいますが、詰まらぬ話です。)は70年代に日本のデンオンと契約してモーツァルトのピアノソナタ全集を録音しています。その後、エラートを拠点としてモーツァルトのピアノコンチェルトやシューベルト、ショパンなどを中心に精力的に録音を行いました。
この当時のピリスは、その可憐なビジュアルも助けとなって結構人気がありました。
ところが、70年代の終わり頃に手首の故障によって突然第一線から姿を消します。ビジュアル優先の傾向がなきにしもあらずだったので、そのまま消えてしまっていればおそらく誰の記憶に残らなかったことでしょう。
ところが、89年にドイツ・グラモフォンに移籍してからリリースした3度目のモーツァルトのピノソナタ全集には二つの意味で驚かされました。
まず、誰でも分かるびっくりはCDのジャケットでした。そこに写っている女性をみて、彼女がピリスだと分かった人はほとんどいなかったのではないでしょうか。女性に対してあまり容貌のことを言っちゃイカンのですが、その後は年を重ねてもそれほど容貌に変化はなくこんな感じです。
確かに欧米の女性は日本の女性と違って急速に老けます。さらに、手首の故障によって演奏活動が困難になると言うことは彼女に想像を絶するようなストレスを与えたのでしょう。
しかし、全くかわっていたのは容貌だけではなくて、それ以上に彼女の演奏スタイルが全く変わっていました。「一皮むけた」などという月並みな言葉では表現しきれないほどの変化だったので、いったいこの数年の間にこの女性の身に何が起こったのだろうといらぬ想像をふくらませたものです。そして、この劇的な「変化」によって、彼女の演奏するモーツァルトのピアノソナタは新しいスタンダードとも言うべき地位を確保しました。
スタンダードというのは、言うまでもないことですが、これ以後の演奏を評価するときの基準となるべき演奏と言うことです。つまりはピリスというピアニストはそれほどの重みを持つ存在に「化けた」と言うことです。
ですから、この二つのボックス盤を並べてどちらをゲットしようかと悩むならば、それは躊躇なくDGの方をチョイスすべきです。しかし、そちらを聞けば、きっと若い頃はどんな演奏をしていたんだろうという興味がわくはずですから、そうなったときにはエラートのボックス盤も買い込んでおけばよかったと後悔することになるでしょう。そして、後悔したときに、二度と入手できなくなっている確率がかなり高いのは間違いなくエラート盤の方です。
そんなわけで、余裕があるならば両方ゲットしておくというのが「定跡」でしょうか・・・。
できれば、これに続けてデンオンも最初のピアノソナタ全集を負けじとリリ-スしてほしいものです。