「貞観仏」という用語があります。
「飛鳥仏」→「白鳳仏」→「天平仏」と来て、その次が「貞観仏」です。
時代区分的には平安時代の初期に作成された仏像群を一括してその様に呼ぶのですが、専門家はそう言う一群を「貞観」という年号だけで区切って言い表すのは不適だと言って平安前期の「初期」「中期」「後期」という言い方をすべきだと主張します。
しかし、誰もそんな言い分は聞こうとはしないので、今も「貞観仏」で通ずるようです。
ただし、専門家の言い分というのはそれなりに根拠があるもので、一口に「貞観仏」と言っても専門家が「初期」「中期「後期」と3区分するように、その様式は微妙に変わっていくことは事実です。
そこで、その辺りの変化も頭に入れながら平安時代前期の仏像の様式を追っていきたいと思います。
木彫が主流になる貞観仏
まずなんと言っても、平安時代にはいると仏像の素材が漆を使った乾漆像から、木を素材とした木彫像へと変化していきます。
この背景には、なんと言ってもコストダウンと、その要求にこたえた木彫技術の進歩があります。
天平仏の項でもふれたように上質の漆というのは同じ重さの金と交換されるほどの高価な素材でした。そのような高価な素材をふんだんに使用したのが脱活乾漆像であり、そこからコストダウンをはかったのが木芯乾漆像でした。
そして、この木芯乾漆像をよりコストダウンするために、原型となる内部の木彫をより精緻に仕上げる方向へと進んでいったのです。
例えば、仏像の目や鼻や口という顔の造作は、木彫の上から貼り付ける漆を浸した布によって仕上げるのが一般的でした。
しかし、木彫の原像でそう言う細部も全て仕上げておけば、漆を浸した布を最後の仕上げとして一枚貼り付ければ完成します。また、そこまでの丁寧な仕上げを要求しない、もしくはコストをかけられない場合は木彫のままで完成させる事も可能です。
もちろん、木彫のままで完成と言っても、本当に素木(しらき)のままで完成させるものもあれば、彩色を施したり金箔を張り付けたりしたものもありました。
また、より丁寧な仕上げて求めて部分的に漆を使う手法も残ったのですが、それらはコストの問題とあわせて、それぞれの仏のイメージにも依存したようです。
一般的には、本尊となる如来像などは漆を使って丁寧に作られることが多かったようです。
古典的均衡から異形へ
この時代の先駆けとして注目したいのは、神護寺の薬師如来像でしょう。
この仏像に関係する人物が和気清麻呂です。
和気清麻呂と言えば、戦前は身命を賭して道鏡の天皇即位を阻止した「忠臣」として讃えられ、現在も皇居竹橋の横に銅像が建っています。
事の起こりは、宇佐神宮の神託として「道鏡を天皇の位につければ天下太平になる」と伝えられたことに始まります。
これを喜んだ女帝称徳は神託を確認させるために清麻呂を宇佐に派遣します。しかし、清麻呂はその様な女帝や道鏡の意図に反して「道鏡のごとき無道の者は速やかに除くべし」という神託を持ち帰ります。
おかげで、この二人の権力者の怒りにふれて清麻呂は「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と改名させられ、官位は剥奪、挙げ句の果ては今の鹿児島へ島流しにされてしまいます。
しかし、間もなく女帝は失意の中で死去、それに伴って道鏡も失脚して、清麻呂は目出度く京に復帰することになります。
神護寺は、その様な硬骨漢清麻呂が神願を受けて建立した寺院を起源に持ちます。
本尊の薬師如来像は、一般的な如来像と比較すれば明らかに異形です。
如来とは悟りをひらいた状態ですから、「相貌端厳」であることが基本です。
ところが、この薬師如来像の相貌は左右が非対称であり、目の位置も上下が揃っていません。
ある人はこの相貌を「侠客」と称しましたが、さもありなんと言う顔立ちです。ここには古典的な均衡を良しとした天平仏の面影は全く残っていません。
一説によれば、失脚した道鏡の怨念封じとしてこの像が造られたのではないかという人もいます。
そして、そう言う説を納得させるだけのパワーがこの像から発していることも事実です。
また、ある方は、この異形の像に清麻呂その人の姿が投影していると主張します。
確かに、全くの素木造りと言うこともあって、また荒々しいのみ使いがそのまま残されている部分が多いと言うこともあって、それは仏と言うよりは生々しい人間的な像という感じの方が強いのは確かです。
国家仏教からの脱却
天平時代の仏教は「国家鎮護」のための精神的支柱であり、国家の手厚い保護のもとに発展しました。
しかし、その様な手厚い保護は、やがて仏教寺院の権力を高め、同時に腐敗も進めました。
その様な腐敗の極点に位置したのが道鏡事件だったのですが、その前触れは既に女帝称徳の母である光明皇后の時代から現れていました。
称徳天皇が愛欲絡みで道鏡を重用したように、母である光明皇后も玄昉と言う僧を重用し、おそらく二人は不倫関係にあったと考えられています。
この時に、清麻呂の役目を果たしたのが「藤原広嗣」です。
歴史的には「広嗣の乱」の首謀者と言うことになっているのですが、それは皇后と玄昉の関係への異議申し立てだったと考えられています。
その証拠に、肝心の聖武天皇は乱が起こると「急に用事を思い出した」と言って伊勢に行ってしまうのです。
広嗣は結局は乱の首謀者として処刑されるのですが、何故か、光明皇后が聖武天皇の眼病平癒のために建立した新薬師寺の中にある神社に祀られているのです。
この神社は鏡神社と言い、今は新薬師寺が縮小したことで境内入り口に立っているのですが、もとももとはここも含めて周辺一帯が新薬師寺の境内でした。
また、失脚した玄昉は広嗣の怨霊によって身体は7つに引きちぎられ、その身体はバラバラのまま新薬師寺の境内にふったとも伝えられています。
新薬師寺の本尊を取り巻くように12神将が護る特異な配置は、その様な広嗣の怨霊封じであり、さらには寺内の神社に広嗣の霊も祀ることで祟りを封じようとしたのではないかと考えられています。
どちらにしても、国家が仏教を保護しすぎることはよくないと言うことは次第に明らかになってきていました。
そして、それが仏教寺院が強固な地盤を築いている平城京から遷都しなければいけない最大の理由となったのです。
そして、その様な仏教の立ち位置の変化は、国家の庇護に頼るのではなく、一人ひとりの信仰心に依拠しなければ寺院が立ちゆかなくなるように変わっていく事であり、それは同時に仏像の姿も大きく変えていったのです。
そして、そう言う時代にあって、一人ひとりの信仰心に訴えかけたのが観音信仰であり、さらには空海や最澄がもたらした密教だったのですが、それは次ぎに続くなのです。