仏像の様式を追う(7)~貞観仏(2)

国家から個人へ

国家事業として寺院が建設され仏像が制作される時代が終わったことは、仏教は国家を護るものであるという側面は持ちながらも、それよりは一人ひとりの人間を救うものとしての側面が重視されることにつながりました。
そして、その様な変化が「観音信仰」という形で現れてきます。

「観音」とは便利な仏様で、願いをかければ何でもかなえてくれる「現世利益」的な側面と、死んだ後に浄土に導いてくれる「来世利益」的な側面を合わせ持っていました。さらに言えば、奈良時代においても国家鎮護を目的として読経されるときも「観音経」が用いられることがあり、それ以外の菩薩よりも祈願の対象となることが多かったようです。
ですから、既にその他の菩薩よりは尊崇の対象として定着しており、さらには「私」を救ってくれる菩薩としてはピッタリの特性を持っていたわけです。

聖林寺 十一面観音

おそらく、権力に向けてまっしぐらの上向き状態の貴族ならば観音がもたらす「現世利益」に期待したでしょうし、逆にそう言う上がり目のない連中にすれば、現世では駄目だったけれど来世では幸せになりたいとして観音の「来世利益」にすがった事でしょう。
そして、そう言う「私」のための仏あるならば、それは国家が関わるような大きな寺院にではなくて、身近にある小さな寺院で祀られることが多かったようです。

特に、奈良時代末期から平安初期に多く作られたのが十一面観音です。この十一面観音で古い時代の姿を留めていて国宝指定されているものは現在七体あります。

  1. 渡岸寺(滋賀県)の木造十一面観音立像
  2. 観音寺(京都府)の木心乾漆十一面観音立像
  3. 六波羅蜜寺(京都府)の木造十一面観音立像
  4. 聖林寺(奈良県)の木心乾漆十一面観音立像
  5. 室生寺(奈良県)の木造十一面観音立像
  6. 法華寺の木造十一面観音立像の木造十一面観音立像
  7. 道明寺(大阪府)の木造十一面観音立像

この中でも、渡岸寺・観音寺・聖林寺・道明寺は、本当にこんな小さなお寺に国宝指定されている仏がいるのかと訝しく思うほどに小さなお寺です。

「観音寺 本堂」この小さなお堂に国宝十一面観音が祀られています

法華寺もかつては総国分尼寺だった大寺院だったようなのですが、今は小さなお寺になってしまっています。そして、この法華寺に十一面観音が祀られるようになったときには、既にその様な往時の勢いは失っていたときでした。

そして、そう言う「私」のための仏であるならば、その姿は次第に人を突き放すような峻厳さよりは、人の心にそっと寄り添うような優しさと親しみやすいものに変わっていきます。それは、木芯乾漆像として作られた天平仏である聖林寺の十一面観音と、木彫像として作られた貞観仏である法華寺や室生寺、渡岸寺などの十一面観音を較べてみれば、その違いは明らかです。

 

法華寺 十一面観音

仏像とはただの彫刻ではなくて、あくまでも仏を刻むものですから、好き勝手な造形は許されません。
仏の姿には「約束事」があって、その約束事は空海などが密教を伝えることでより厳密に規定されるようになっていきました。
ところが、実際は、そう言う密教の仏として位置づけられている十一面観音が、貞観仏の時代になるとかえって自由な造形をみせるようになるのです。

これは全く私の想像にしかすぎないのですが、煩悩を肯定した空海の教えがそう言う仏の造形にも影響を与えたのかもしれません。

そして、そう言う「私」的な性格を強めるに従って、観音はますます「女性的」になっていきます。
聖林寺の十一面観音は見た目は女性的な面を持ちながら精神は男です。

しかし、室生寺や法華寺の十一面観音はまさに女性そのものです。
そして、そういう観音の姿は後の時代になるにつれてより強化され、ついには隠れキリシタンたちが聖母マリアを「マリア観音」として信仰するようにまで至るのです。

そして、その姿と精神が女性化していくにつれて、その仏はますます「私にとっての仏」という性格を強めていくように思えるのです。
貞観仏の範疇で言えば、その一つの極点が歓心寺の如意輪観音だろうと思われます。

歓心寺 如意輪観音

これはもう女性そのものです。
そして、如意輪観音とは「抜苦与楽」、つまりはあらゆる苦しみを楽しみへと転化してくれる仏なのです。
ただし、ここまでくると、その姿はかえって修行の妨げになるのではないかと心配してしまうほどの色っぽさです。おそらく、日本に存在するあらゆる仏の中で、もっとも色っぽい仏様がこの如意輪観音でしょう。
ある人は、これはもう新地のクラブのママだと言いました。(^^;・・・ううぅ、ばちあたりな・・・。

新地のクラブのママみたいと言った罰当たりの奴がいました

ちなみに、この仏様は現在も秘仏中の秘仏で、年に2日間、計16時間しか公開されないという仏です。
やはり常時拝んでいると修行の妨げになると考えられていたのかもしれません。

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