長くネット上でサイトを運営し続けると言うことは様々な悪意にさらされると言うことです。
今さら言うまでもないことですが、自分のまわりに悪意が存在するのはネットの世界だけでなくて、現実の社会においても本質は同様です。違いがあるとすれば、ネット上では「匿名性(勘違いにしかすぎませんが)」という隠れ蓑によってその悪意がむき出しになるのに対して、現実の社会では上品なオブラートに包まれる事が多いと言うことくらいです。
しかしながら、ネットの世界もはじめからむき出しの悪意が跋扈していたわけではありません。その黎明期においては「悪意」もまた現実社会の規範意識の中にとどまっていて、多少の言葉の投げつけ合いがあったとしても基本は抑制的でした。
それががらっと様変わりするきっかけとなったのは2チャンネルの登場でした。
2チャンネルは今にあっても否定的に語られることが多い存在です。リアルの社会において、「私は2チャンネルで熱心に書き込みをしています。」と言うことを公言する人はほとんどいません。しかしながら、2チャンネルの最大の功績(そう、あえて功績と言います)は、現実の世界においては秘めやかに押し込められていた他者への「悪意」というものの姿を誰の目にも分かるように提示したことです。
イヤ、それは「引きずり出した」といった方がいいのかもしれません。
「他人に迷惑をかけてはいけません。」
「他人のことを悪く言ったり、妬んだりしてはいけません。」
そういう風に私たちは小さい頃から躾けられてきました。ですから、誰かを名指しで悪し様に罵ったりするなどと言うことはこの社会では許されないことでした。
しかし、他者に対する様々な負の感情というものは絶対に存在します。2チャンネルの功績は、この誰もがあることを認めていながら、オフィシャルには「あってはならない」事になっていた真実をあからさまにしたことでした。
しかし、ネットの上でそれがあからさまになったからと言って、リアルの世界で同じ事が許されるわけではありません。現実の社会においては未だにそれは「あってはならない」事になっているからです。
ですから、圧倒的大部分の人たちはそういう負の感情は上品な笑顔のうちにおし殺して日々を暮らしているのです。
しかし、時にはそう言う負の感情が外へ向かって暴発してしまう人がいます。
しかし、何がきっかけであったとしても、そう言う負の感情を生の形で吐き出して暴発させてしまえば、それで終わりです。The End ・・・です。
そんな「恥ずべき事」は現実の社会ではとうてい受け入れられません。
暴発の報いは「世間」という名の様々なインフォーマル集団からの排除という形でかえってくることになります。
ですから、大部分の人は負の感情を吐き出す時はきわめて隠微で秘めやかな形で行うことになります。それが最初に述べた「上品なオブラート」の正体です。
しかし、「上品なオブラート」に包まれた悪意というものは実に始末の悪いものです。
なぜならば、そのように上品な形で表明される悪意というものは、下手をすると悪意を向けられた人が、何か自分に非があるかのような錯覚に陥らせるからです。そして、己に非があると錯覚した時点で自分に向けられた悪意に「正当性」を担保してしまうことになります。
そして、錯覚がきっかけだったとしても、悪意に正当性が担保されてしまえば、その悪意は次第に「上品さ」を失っていきます。やがてはむき出しの形で他者を攻撃を始めるようになり、さらには、その攻撃が一般的には許されないレベルにまでエスカレートしても、その集団の構成メンバーに最低限の社会性が欠如しているような場合にはその正当性の故に歯止めを失っていきます。そして、そのような悪意による攻撃が最終的にどういう結果を招くのかは今さら言うまでもないことです。
ですから、私のような年寄り(自分で認めちゃっていますね^^;)から見ると、とりわけ若い世代の人たちはそのような形で表明される他者からの悪意に対して敏感であるかのように見えます。そして、それが強力な同調圧力となって多くの若い世代を苦しませているようにも見えます。
しかし、2チャンネルなどでむき出しの形で表明される様々な負の感情を眺めていると、そうやって他者から寄せられる悪意というものには何の意味もないことに気づかされます。
2チャンネルの書き込みをみていると、その大部分は他者に対する悪罵、中傷、非難で埋め尽くされていて、それは一種壮観ですらあります。しかし、それは決して異常な状態ではなく、それもまたごく普通に存在する人間の感情だと言うことに気づくはずです。
つまりは様々な者に向けられる悪意などというものは、何か顧慮すべき特別な意味などは何もないのです。
それは言葉をかえれば、人が他者に対して持つ負の感情、悪意というものは、人間の住む社会においては空気や水と同じくらいにありふれた存在だということです。そして、自分がどのように振る舞おうと空気や水が自分のまわりに常にありふれたものとして存在しているように、悪意もまた他者から向けられるありふれた感情の一つとして存在しているだけなのです。
ですから、時に寄せられる秘めやかな悪意の表明によって自分に何か非があるのではないかと己を振り返るなどと言うのは愚かの極みなのです。そんなものは、空気を吸い込み水を飲むように、ありふれたものとして飲み込んでしまえばいいのです。
それだけで、ずいぶんと楽になれるはずです。
周囲の人々から好意と暖かい感情を寄せられているのが「常態」であり、非難と悪意が寄せられるのが「異常な常態」だと言う認識がもともと間違っているのです。悪意もまた好意と同じように普遍的な存在としてこの社会に遍在しているのだと思えば、時に寄せられる上品な悪意に対しても己を攻めることなくやり過ごすことができるはずです。そして、時に寄せられる好意や励ましなどの温かい感情というものが、言葉の最も正しい意味において、いかに「有り難い」ものであるかにも気づくはずです。
そう言う意味において、人の社会における悪意と好意というものの姿をあからさまにさらけ出してくれたという意味で2チャンネルの功績は偉大なものがあると思います。(しかしながら、2チャンネルにおける度の過ぎた悪意の発露は、時たま発生する個人情報の流失によってリアルの社会と紐づけられて、インフォーマル集団からの排除だけでなく、解雇や退学という名でフォーマル集団からも排除されることが時々起こるので注意してくださいね。)
悪意にへこまず、好意に甘えず。
これが一番大切なことだと思うようになってきました。
ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団 1957年10月28日録音
クラシック音楽の作曲家の中で、メンデルスゾーンほど悪意を向けられた人はいないのではないでしょうか。
その悪意を誘発したものの一つは、当時の(もしかしたら今も?)ヨーロッパでは正当性が担保されていたユダヤ人への差別であり、もう一つは多くの人々が忍びやかに正当性を認め合う裕福な者への嫉妬でした。
この「宗教改革」と題された交響曲は彼に向けられた数多くの悪意を象徴するような作品になってしまいました。そして、それは飲み込んでしまうにはあまりにも苦すぎる悪意でした。
しかし、結局は苦すぎる悪意であっても彼はそれを飲み込むことによって新たな創作活動へのエネルギーに転化していったのです。
にもかかわらず、メンデルスゾーンは自分が生きた時代だけでなく、亡くなってからも苦すぎる悪意にさらされたひとでした。
ユダヤ人故にナチスによって「退廃音楽」のレッテルを貼られ、それ故に「メロディラインは美しくても精神性に乏しいお坊ちゃま音楽」という評価が定着し、その結果として現在においても「取るに足りない作曲家」と切って捨てる学者が多数派を占めるというあまりにも苦すぎる悪意に囲まれている人でした。
だから、せめて一人でも多くの人が、メンデルスゾーンは偉いと言うことを言わなくっちゃと思うのです。
私のメンデルスゾーンの評価は、次のようなものです。 まず音楽史的傑作と言う名に価するものは、ヴァイオリン協奏曲のみです。しかし、その他の作品私の知る限りにおいて、とても勝れていて、佳作と呼べるものばかりです。メンデルスゾーンでしか味わえない快楽が、どの作品にも確実に存在しています。この前期ロマン派と言う時期は、特別な時代で、もっとも聴衆にクラシック音楽が接近した時代であり、解りやすい音楽で溢れていました。音楽は明快なものが多く、しかしそれに反比例するかのごとく、次々と天才が現れ、芸術性の低下を防ぎました。
この時代のどことなく素人っぽい作曲家が多い中で、メンデルスゾーンは、作曲技法に於いて、完成度の高さを維持できた、数少ない作曲家であったと認識しています。むしろメンデルスゾーンの音楽は、芸術性が低いと言う事は全くなく、上品すぎてとっつきにくく成っています。しかし聴き進むうちに、理解が出来る様になり、その芸術性の高さに恩恵にあずかる事が出来る様になってきます。メンデルスゾーンが分からない諸君は、その壁を打ち破れなかった者達にすぎません。素人愛好家ならいざ知らず、評論家と名乗る者達が、壁を突破できずに、メンデルスゾーンを愚弄するのであれば、とても恥ずかしい事であると、私は考えています。