「巨匠」と「名匠」という言葉があります。一般的には「巨匠 > 名匠」となるのですが、さて、この境目が奈辺にあるのかと言えばこれがちょっとばかり難しい。
Wikipediaで「巨匠」を検索してみると、「専門分野特に芸術領域で、傑出した人のことである。」と書いています。そして、音楽の分野では「フルトヴェングラー、カラヤン、バーンスタイン、デュトワ、ワルター、トスカニーニ、クレンペラー、クナッパーツブッシュ、ムラヴィンスキー」が例としてあげられています。デュトワがフルヴェンやトスカニーニと肩を並べる一人として列挙されているのはWikipediaらしいご愛敬ですが、何となく雰囲気は伝わってきます。
それに対して「名匠」という項目は未だにWikipediaには存在しないようなので、国語辞典を引いてみると「芸術・学問などの分野で、技量や学識の特にすぐれた人。」と書いてあります。
つまりは、「傑出」していると「巨匠」で、「特にすぐれている」程度だと「名匠」になるらしいのです。しかし、「傑出」しているレベルと「特にすぐれている」レベルの境目が奈辺にあるのかとつっこまれると、この辞書を編纂した人も言葉に詰まるのではないでしょうか。
講談社の「日本語大辞典」なんかは「巨匠」の項に「芸術の大家、名匠。」と書いてありますから、「もうイコールでいいじゃん!!」という開き直りが読み取れます。
ところが、もう少し調べてみると、「名匠」の項にはもう一つ「すぐれた腕をもつ工匠。名高いたくみ。名工。」という意味が記されています。
つまりはすぐれた(もしくは傑出した)職人という意味です。
なるほど、この意味を採用すると、「巨匠=芸術家」であり「名匠=職人」という区別が可能になるのかもしれません。しかしながら、そういう風に線引きをしたとしても、それでは芸術家と職人の境目が奈辺にあるのかと問われれば、これまた言葉に詰まることになります。音程もまともにとれないような阿呆な歌うたいが自分のことを「アーチスト」と言っている昨今の日本の芸能界を見ていると、間違っても自称で巨匠が認められるはずはありません。そう言うのを聞かされるたびに、「せめて音程くらいは外さずに歌ってください」と思ってしまうので、少なくとも、「巨匠」と呼ばれるためには、最低限のラインとして「名匠」と呼ばれるだけのスキルが必要なことは間違いないようです。
そしてそう言う「名匠」の中から「この人って特にすごいよね」とみんなが認めるようになることではじめて「巨匠」と認定される・・・と言うのが妥当なラインなのかもしれません。
そのように考えれば「巨匠 > 名匠」ではなくて「巨匠 ⊆ 名匠」という数式の方がこの両者の関係を正しく表現しているのかもしれません。
しかし、ここでもう一つ新しい疑問がわき上がってきます。
クラシック音楽の世界では演奏家に対して「巨匠」という言葉がよく使われるのに、なぜか、作曲家に対しては「巨匠」という言葉は滅多に使われません。
バッハやモーツァルトやベートーベンに対して「巨匠」という定冠詞をつけると実にへんです。
巨匠バーンスタインや巨匠カラヤン、さらには巨匠デュトワ(;^_^A アセアセ・・・というのはそれなりに据わりがよいのですが、巨匠バッハや巨匠モーツァルトはどう考えても変です。そして、そのことはバッハやモーツァルトのような巨大な存在ではなくても、ロマン派以降の数多くの有名作曲家に対しても同様です。巨匠ショパン、巨匠シューマン、そして巨匠ブラームス・・・やっぱり変です。
何故に?と考えてみると、そう言う表現は「馬から落馬して骨を骨折」するような違和感があるからなのでしょう。
つまり、時間という冷徹なジャッジによって選別されて残った創作物と、それを生み出した創作者というのは、その事実だけをもって、すでに誰がなんと言おうと「巨匠」の有資格者だからです。100年、200年の時を経ても、ごく親しい知り合いであるかのようにその名前が多くの人の口に上るというその事実だけをもってすでに巨匠なのです。
そう言う大きな存在に対して今さら「巨匠」という定冠詞を奉るのは無粋というものです。
と言うことは、未だに定冠詞に巨匠という言葉をつけて据わりがよいというのは本当の意味で未だに巨匠になり得ていないと言っていいのかもしれません。
巨匠バーンスタインや巨匠カラヤン、さらには巨匠デュトワと続けてみて、一番据わりがよいのは巨匠デュトワで、その次が巨匠バーンスタインかな?と思うのはそういう事情からでしょうか。そう言えば、最近はあまり巨匠フルトヴェングラーや巨匠トスカニーニという表現はあまり見かけなくなってきましたし、
こう書いてみると少しずつ据わりが悪くなっているようにも思えます。
演奏という時間芸術(刹那の芸術)が録音というテクノロジによって固定化されることで、演奏家も作曲家と同じように時間のジャッジを受けることになりました。そして、その時間の積み重ねも100年を超えることで、その堆積物の下の方では少しずつ乾きはじめたと言うことなのでしょうか。
どちらにしても、まわりから「巨匠」とか「マエストロ」と呼ばれて喜んでいるうちはまだまだ前途多難と言うことなのかもしれません。
サヴァリッシュ指揮 ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団 1960年9月録音
サヴァリッシュのベートーベンと言えば90年代にロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団との録音が有名ですが、個人的にはコンセルトヘボウの変貌(本音は「凋落」と言う言葉を使いたい)が感じ取れる録音だなぁといつも思っていました。そして、その変貌はサヴァリッシュの正確無比なバトンテクニックのおかげで私のような駄耳でも聞き取れるようにしてくれている感じがしたものです。
その後、シャイーの時代になったコンセルトヘボウの来日コンサートは私の人生における最悪の体験の一つになったものです。
それと比べれば、この60年に録音された田園から聞こえるコンセルトヘボウの響きはとても魅力的です。
サヴァリッシュと言えばN響との関係が深く、日本の聴衆にとってはあまりにもなじみが深かったために却って有り難みがなくて低い評価に甘んじた人でした。
これで演奏できなければ嘘だろう・・・と思うほどに正確無比な指揮ぶりも、この国では評価を下げることにつながっても上がることにはつながりませんでした。逆に、あれでどうして演奏できるんだろう・・・(^^;?と、いぶかしく思うようなマ○○ッチ先生なんかは巨匠と呼ばれたんですから不思議なものです。
ただ、残念に思うのは年を重ねても律儀さを失わず、我が儘にも傲慢にもならなかったこと。少しはヴァントを見習っていればと思うのですが、そう言うことこそ無い物ねだりというのでしょうね。
ユングさんと同じようなことが書かれた記事がありました。
〈表現の秋〉「若き巨匠」たち 氾濫するフレーズ
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200611240261.html
サバリッシュのベートーベンは、後年のフィラデルフィア管との録音にも言える事だが、真面目な性格が災いしてか、重厚な響きも無く、面白みに欠ける。確か芸術は爆発だと、岡本太郎が述べたが、そのような演奏に出会う事が最近本当に少なくなった。ちょうど1960年頃にライナーがシカゴ響と録音した田園と聴き比べてみたが、演奏の緻密さと、表現力において明らかに差をつける。特に圧巻は、第4楽章の嵐の場面で、バイオリンの処理は、聴くものの全ての人々に驚きと喜びを与える程素晴らしい。
サヴァリッシュ先生には、Rシュトラウスのオペラや歌曲などでは巨匠というほどの素晴らしい成果を残してくれました。本当に感謝してます。
この分野、ワーグナーも同様、日本人には苦手な方が多いので、サヴァリッシュ先生への評価には気の毒に思っています。
サヴァリッシュ先生には,ただただ感謝のみです.中学生のころからTVではいつもサヴァリッシュ先生がN響を指揮していました.始めて聴く名曲はみんなサヴァリッシュで聴いたような気がします(そんな訳はないのですが..).大学に入ってNHKホールでも何度も何度も聴きました.しばらくTVも見ませんでしたが,引退された時は悲しかった.しかし,引退直前の指揮ぶりをYouTubeで見て納得しました.これがサヴァリッシュ先生か,と思うほど腕が挙っていませんでした.ご本人もそれが許せなかったのでしょう.真面目な先生らしいご決断でした.亡くなった時は,父を亡くした時に近い喪失感を感じました.