今週の一枚(16) ブラームス:交響曲第4番 ホ短調 作品98

現実を見ろ・・・と言われます。ところが、現実を見すえて手堅く対応すると志が低いと文句を言われます。
どちらにしても、年寄りは「自分は偉いんだ」と言うことを見せつけたいので、若手が何をやっても文句をつけたがります。「親の意見となすびの花は千に一つの嘘もない」と言う言葉がありますが、若手に対する年寄りの意見と言うものは千に三つも誠があればいい方なのかもしれません。

しかし、世間でよく言われる「現実」とはいったい何なのでしょうか。
ある人はそれをポーカーの手札にたとえました。確かに配られたカードを今さら変更するわけにはいきません。それがどんなにひどい手札であっても、それを受け入れて次の展開を考えるしかありません。
しかし、この世の中における「現実」というものはポーカーの手札ほどにクリアでしょうか?

確かに、「現実」というオブジェはただ一つです。しかし、その見え方はそのオブジェを見る人の立ち位置で全く異なってきます。
たとえば、中国地方に大山という山があります。「伯耆富士」と呼ばれる秀麗な山容は有名ですが、北側から見上げる大山は「伯耆富士」とは全く無縁の姿をしています。

<伯耆富士と呼ばれる大山>・・・A

daisen_1

<北側から見上げる大山>・・・B

daisen_2

おそらくこの二枚の写真を何も知らない人に見せれば、全く別の山と思うでしょう。それほどまでに、同じ現実であっても見る人の立ち位置によって全く別物に見えてしまいます。
現実というものはポーカーの手札のようにシンプルに認識できるものではなくて、己の立ち位置を様々に変えてみて、漸くにしてその全貌がおぼろげながらに認識できるものなのです。

山に登りたい人間は「A」こそが現実だと主張し、登りたくない人間は「B」こそが現実だと主張します。互いに「現実をしっかりと認識しろ」と言い合いながら、ぶつかっているのは互いの我だと言うことに気づかないのが凡人の悲しさです。
そう言えば「人間とは見たいと思う現実しか見ない生き物だ」と言った人がいました。(カエサルだったかな?)そして、一般大衆(この言葉が気に入らなければ「市民の多く」)が見たいと思う「現実」を見せてやりながら、結果として為政者の我を押し通してしまうのが政治だと言っていたような記憶があります。
おそらく、この言葉は古代ローマの時代から現在に至るまで真であり、政治というものが持つ本質を見事なまでにあけすけに語っています。
そして、いつの時代においても、一般大衆が見たいのは「強い○○」であるというのも悲しいほどに共通しています。その「強い○○」は国家レベルの大きな話から地域のスポーツ少年団のようなレベルに至るまで、その見たい「現実」は悲しいほどに似通っています。

ですから、いろいろな場面でこの「強い○○」が持ち出されたときは、「強くない○○」に目を向けるようなひねくれた性根だけは失わないようにしたいのです。

ブルーノ・ワルター指揮 コロンビア響 1959年2月録音

この交響曲はとんでもない「へそ曲がり」の作品です。
ブラームスはあらゆる分野において保守的な人だったので、晩年には尊敬を受けながらも「もう時代遅れの人」という評価が一般的でした。もう少し現実を見ろよ!とでも言いたかったのでしょう。

この第4番の交響曲はそういう世評にたいするブラームスの一つの解答でした。
形式的には「時代遅れ」どころか「時代錯誤」ともいうべき古い衣装をまとっています。とりわけ最終楽章に用いられた「パッサカリア」という形式はバッハのころでさえ「時代遅れ」であった形式です。
それは、反論と言うよりは、もう「へそ曲がりの開き直り」「ひねくれ根性の極値」と言うべきものでした。

しかしながら、そんな古い衣装をまといながら、この第4番の交響曲は、どの部分を取り上げても見事なまでにロマン派的なシンフォニーとして完成しています。
冒頭の数小節を聞くだけで老境をむかえたブラームスの深いため息が伝わってきます。第2楽章の中間部で突然に光が射し込んでくるような長調への転調は何度聞いても感動的です。そして最終楽章にとりわけ深くにじみ出す諦念の苦さ!!

ひたすら新しい形式(現実)ばかりを追い求めていた当時の音楽家たちはどのような思いでこの作品を聞いたでしょうか?
若手に意見する年寄りは見苦しいだけですが、ひねくれた年寄りは偉大です。

  1. ブラームス 交響曲第4番 ホ短調 作品98 「第1楽章」
  2. ブラームス 交響曲第4番 ホ短調 作品98 「第2楽章」
  3. ブラームス 交響曲第4番 ホ短調 作品98 「第3楽章」
  4. ブラームス 交響曲第4番 ホ短調 作品98 「第4楽章」


1件のコメント

  1. ワルター指揮コロンビア交響楽団の演奏は、どれも優しく人間味に溢れた演奏で、しかも決して感情移入が過多になるような事はない。さて、この曲は、とても美しいセンチメタルなメロディーが随所に散りばめられており、時として自己陶酔型の演奏になりがちである。しかし、ワルターの演奏は甘いロマンティシズムとは対局の、男性的な力強い演奏スタイルを随所に見せ、深々とした自然体でこの曲を演奏している。録音も非常に素晴らしく私の愛聴盤の一つである。

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