最近、つらつらと、「Google」って何なんだろう?と考えます。
気がつけば私自身もGoogleが提供してくれるサービスの中にどっぷり浸かり込んでいることに、驚きさえ感じてしまいます。何か調べたいことがあれば、今ではまず最初にすることはGoogleの検索窓にキイワードを入力することです。初めての場所に外出するときはGoogle Mapで検索するのが習いとなってしまっています。そして、メールでのやりとりの大部分はGmailに頼っていますし、何よりもサイトの維持・運営のためにGoogle Adsenseから受けている恩恵は決して少なくありません。
また、あちこちでGoogleのことを「神」と呼ぶ表現にも出くわします。それは、ネットの世界における「殺生与奪の権利」を持った存在としてのGoogleを賛美すると同時に大きな恐れをともなった言葉として使われています。
図書館に行ってパソコン関係の棚を眺めてみてもGoogle関連の書籍が目立つようになっています。
初めの頃のGoogle論は今から見れば驚くほどに楽天的でした。その大部分は、二人の大学生による夢のような成功ストーリーであり、勤務時間の20%ルールであり、さらに、それぞれの夢を書き込めるホワイトボードであり、お気に入りのおもちゃやグッズに囲まれて仕事ができる快適なオフィスの話だったりしたわけです。
聞くところによると、Googleを取材して記事を書こうとすると、その様なGoogle伝説を彩るいくつかのエピソードにふれる義務があるそうです。ですから、書き手の全てがGoogleに対して無批判だったというわけではないでしょうが、それでもその基調は手放しの礼賛だったことは事実です。
しかし、この1年ほどでその様な礼賛を基調としたGoogle論の中に、批判とまではいかなくてもいくつかの疑念や戸惑いが紛れ込んできていることは注目に値します。
私もGoogle関連本はこの半年ほどでかなりの数を読みましたが、そう言う疑念や戸惑いをもっともハッキリと表明していると思ったのは「グーグル・アマゾン化する社会」(森健)です。「ウェブ進化論」(梅田望夫)や「Google – 既存のビジネスを破壊する」(佐々木俊尚)等が基本的に楽観論に重心を置いているのに対して、「グーグル・アマゾン化する社会」の方はハッキリと疑念と戸惑いの方に重心が置かれています。
「多様化、個人化、フラット化した世界で、なぜ一極集中が起きるのか?」というコピーはなかなかに鋭いところをついているように思えます。しかし、それでもその論の基本は「疑念」であり「戸惑い」の範疇にとどまっていて、ハッキリとしたGoogleに対する批判とまではなっていません。
つまり、Googleの正体を未だに誰も分かっていないと言うことなのでしょう。そして、もしかしたら、Google自身でさえも、自分たちが何ものなのかを分かっていないかもしれないのです。
私自身もGoogleが提供するサービスにどっぷりと浸かりこんでいけばいくほどに、体の内奥から「これでいいのかな?」という疑問がわき上がってくるのを感じます。
「みんなが一斉に同じ方向を向いて走り出せば、反対へ走るか、それができなければ少なくとも立ち止まれ」という教えは人生において結構役立つ教えです。残念ながら、今の状態では反対向いて走る、つまり、Googleが提供するサービスを一切拒否するというのはかなり困難なようですから、少なくともしばしは立ち止まって、Googleって何なんだろうと言うことぐらいは考えてみる必要があるかもしれません。