川ガキと言う言葉があります。
いや、「ありました」と過去完了形にすべきなのかもしれません。
一部ではこれを「絶滅危惧種」とし、「近年減少の一途をたどり、絶滅した地域も少なくない。ただし一度絶滅した水辺でも復活させることは可能である」として「川ガキ養成講座」なるものを実施している大人もいるようです。
お節介な話です。
大人の管理下で川遊びをする子どものことを「川ガキ」とは呼びません。
このページに川ガキの定義がなされているのですが、最も重要な項目が(おそらくは意図的に)するりと抜け落ちています。
その定義とは、「大人の目の届かないところで活動するのが一般的である」という項目です。
確かに川は危険です。絶対に近づいてはいけないポイントというのはあります。
しかし、そう言う危険をわきまえてスキルを磨けば川ほど素敵なフィールドはありません。そして、川ガキは幼い頃からお兄ちゃんの川ガキたちに連れてもらいながら知恵とスキルを身につけたものでした。そして、自分が大きくなればまた幼いガキたちを連れてその知恵とスキルを伝承していったのです。
そこに大人が干渉することは絶対にありませんでした。
そして、そう言う「伝承」がとぎれてしまえば、川ガキもどきは育成できても本当の川ガキが復活することはないのです。
昔の、本当の川ガキは凄かったです。
学生時代に和歌山県の山村によく調査に行きました。もう30年以上も前の話です。
そこに棲息していた川ガキは川に潜って魚を手づかみしてきました。子供の頃は私もそれなりの川ガキだったのですが、さすがにこれは真似はできませんでした。
そして、「兄ちゃんらには無理やな」と言って、浅瀬の岩の下に潜んでいる魚を手づかみする初心者コースから教えてくれました。
魚が潜んでいそうな岩に目星をつけて、その両側から手を差し入れて奥の方へと魚を追い詰め、逃げ場がなくなったところで一気に両手で捕まえます。ポイントは、とにかく魚が潜んでいそうな岩を見極めることです。
水苔のついていない岩は最近になって上流からころがってきたものなので、こういう岩の下にはまず魚はいません。逆に、水苔がしっかりとついて古びた岩だとほぼ間違いなく魚が潜んでいました。
とはいえ例外も多いのですが、魚がいそうな岩を見極める川ガキたちの眼力は半端じゃなかったです。
そして、この初級者コースを卒業すると、今度は浅瀬を泳いでいる魚から大きそうなものに狙いをつけて、その魚が岩の下に入り込んだのを確かめてから捕まえるという中級編へと進んでいきました。
実は、これの上級編が「潜って魚を手づかみしてくる」という技でした。
当たり前と言えば当たり前ですが、いかにすぐれた川ガキといえども、泳いでいる魚を直接手づかみなんてできるはずはありません。
彼らは水に潜って、岩場の陰に潜んでいる魚を逃げ場のないところに追い込んでは捕まえているのでした。
残念ながらこの技だけは最後まで習得することはできませんでした。
さらに川ガキは、細い竹の節をくりぬき、そこに針をつけたテグスを通して、落ち鮎を突いてくるという恐ろしい技も持っていました。
私の記憶に間違いながなければ、日置川の上流部では8月も終わり頃になると瀬の落ち口に鮎が群れはじめていました。彼らは、その流れも速く泡立っている落ち口に潜っては百発百中で鮎を突いてくるのです。
ベテランの釣り師でも一日に10尾も釣果があれば上出来なのに、彼らは1時間ほどの間に20~30尾くらいは突いてくるのですからもう笑うしかありません。
そんな川ガキたちが棲息していた村も平成の大合併で田辺市に編入されてしまいました。そして、昨年その村を久しぶりに訪れたときは、夏休みの真っ最中だったにもかかわらず川で遊んでいる子供の姿は皆無でした。
聞いてみると、過疎化の進行でガキそのものが減少しているところに、平成23年の台風12号による壊滅的な被害によって、ついにガキそのものが絶滅危惧種になっているというのです。
川ガキどころの話ではありません。
川で魚を追いかけ岩の上から淵に飛び込んでいた川ガキたちは、今にして思えばなんと幸せな子ども時代を過ごしたことでしょう。川ガキたちの毎日には過去も未来もなく、あるのはその時々の一瞬だけでした。
そして、どんな形であれ、そんな一瞬を持てなかった子ども時代は間違いなく不幸です。
今日も近所の子どもたちはマイクロバスに乗せられて「夏期集中講座」なるものに出かけていきます。
月並みな言い方ですが、戦後70年にして、失ったものの大きさに呆然としてしまいます。
(P)アラウ 1957年5月18日録音
- ベートーヴェン:ピアノソナタ第31番 変イ長調 作品110「第1楽章」
- ベートーヴェン:ピアノソナタ第31番 変イ長調 作品110「第2楽章」
- ベートーヴェン:ピアノソナタ第31番 変イ長調 作品110「第3楽章」
ベートーベン自身が「嘆きの歌」と題した音楽は、決して嘆きの中で終わることはありません。諦めてはいけないのでしょう。
もし、大人が本当に子どもを信じることができるならば、今一番必要なことは大人の管理から子どもたちを解き放つことです。
自分の子供が河で溺れ死んだような時に、誰のせいにすることもなく、ただ一人悲しみの涙を流すという親がいなくなったんだと思います。