メール破産??

“本家/.の記事より。「Eメール破産」を申し立てた人が注目されている(Washington Postの記事)。
といってもお金の問題ではない。記事に登場するベンチャー・キャピタリスト、Fred Wilson氏の場合、「負債」としての未読メールが溜りすぎて対処しきれなくなり、現時点で未読のものは消すからもう読まない、返事が欲しいのにもらっていないときはもう一度送り直してくれ、と自らのブログで宣言したそうだ。”

スラッシュドット ジャパン | Eメールやめますか、人間やめますか
サイトを始めた頃は、メールが来るなんてほとんどありませんでしたから、たまに舞い込むと天にも昇る気持ちになったものです。ですから、そう言うメールにはホントに一つ一つ心を込めて返事を書いたものです。逆に、私自身があちこちのサイトを訪れて、どうしても一言感謝の気持ちを伝えたいと思ってメールを出すと、そのほとんどに心のこもった返事が来たものです。
20世紀も終わろうかという、10年ほど前の話です。牧歌的な時代でした。
しかし、舞い込むメールの量が増えてくると、それら全てに返事を書くのは現実問題としては不可能になっていきました。最初の頃は何通りかテンプレートを作っておいて、それを基本に返事を書いていたのですが、毎日何通もメールをいただくようになると残念ながら読むのが精一杯です。
聖徳太子は一度に7人の話を聞いたという話が伝わっていますが、現在人はメールという物理的制約から自由になった媒体を得ることで、一度に何十人という人間とやりとりをすることを強いられています。しかし、媒体がどれほど進歩しても、それを使いこなす人間の能力は基本的に変わっていません。ですから、どれほど無理を重ねたとしても、必ずどこかで入力オーバーになって「破産」してしまうことは容易に想像できます。
さらに、もっと突き詰めて考えれば、まだ「破産」していないと思っている人でも、その内実を見てみれば、受け取る情報の価値を限りなく「0」に近づけることで無意識のうちに「破産」を防いでいるだけかもしれません。そうなると、自分はあらゆる情報の中心にいて世の中を操っているような感覚になっていたとしても、その実は「何も分かっていない」という「裸の王様」になっているのかもしれません。
昔の偉い人は随分とたくさんの手紙を書いています。そして、その手紙の一つ一つには考え抜かれた論理と暖かい情愛が満ちています。
メール(手紙)の内容×メール(手紙)の数=情報量
1年に数通しかやりとりできなくても、その一つ一つの内容が充実していれば、その両者の間でやりとりされる情報量は十分に大きなものになります。しかし、メールの内容が限りなく「0」に近いものであれば、たとえやりとりされるメールの数が爆発的にふくれあがったとしても、両者の間でやりとりされる情報量は基本的に「0」です。
駅前のベンチにへたり込んでひたすら携帯に向かっている人たちを見ると、その様な危惧は決して杞憂ではないように思えてきます。

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