のだめ

実は「のだめ」なんて馬鹿にしてそっぽ向いていたのです。
「できればこのサイトはのだめファンには知られたくないですね。」なんて言うメールもたくさんもらいましたから、「心あるクラシックファン(おたく・・・?^^;)」の大部分も似たような反応だったのでしょう。
聞くところによると、あれほど馬鹿売れしたドラマのサントラCDは、クラッシックファン(おたく・・・?^^;)御用達の「アリアCD」ではわずか5枚しか売れなかったらしいです。
ドニャ:「ドラマのサントラCDもかなり売れたそうじゃないですか。すごいベストセラーみたいですよ。」
ラスコル:「あはは。うちは5枚しか売れんかった。しかもそのうち2枚はおれとドニャ。」
ドニャ:「ほんとですか?」
ラスコル:「これはほんと。」
ところが、ふとしたはずみであのドラマをみてしまったのです。
昨年は11月に父が亡くなり、母と義母が相次いで入院するという最悪の年で、年末も入院継続中の母を一時引き取っていたのです。それで、いつもはあまり見ないテレビを母のためにつけっぱなしにしていて、たまたまそれが年末一気放出の「のだめカンタービレ」だったのです。
「なるほど、これが噂の『のだめ』か・・・」と思いながら年末の忙しさの合間にチラチラ見ていたのですが、一気に興味をひかれたのがピアニカ版のラプソディー・イン・ブルーでした。そう、のだめがマングースのぬいぐるみを着てピアニカでソロをやった演奏です。
私の手もとに、ガーシュインがピアノソロを演奏したとっても古い録音があります。初めて聞いたのは数年前なのですが、そのあまりのアクの強さに驚かされ、同時に作曲者がイメージしたラプソディー・イン・ブルーがこんなものなら、いわゆるクラシック音楽として演奏される大部分のラプソディー・イン・ブルーはあまりにもお行儀がよすぎるのではないかという思いがしたものです。そして、ラプソディー・イン・ブルーという作品は、ジャスのようにその時々の雰囲気に合わせてもっと自由に楽しくやる事こそが、作曲者の意図に忠実なのではないかと思った次第だったのです。
ですから、このピアニカ版のラプソディー・イン・ブルーをドラマで聞いたときは「やられた・・・!!」と思いましたね。
実はアリアCDの店主ラスコル氏もこんな事を書いていたのです。
「千秋がキャンパスを歩いていて、突然どこかからベートーヴェンの「悲愴」が流れてきて、「な、なんだ、この演奏は!」とのけぞる重要なシーン。・・・ ここで、なんということのない普通の演奏が流れたら、その時点でこのドラマのすべての説得力は消えてしまうのである。・・・おそらく第1話で登場するであろう「のだめ」の「悲愴」が普通の演奏だったら、「ぐわっはあっはっは!ほーら、みろ、だからドラマ化なんてやめろって言ったんだ!」というつもりで待ち構えていた。
 ・・・そうしたら、その「悲愴」はマンガで聴こえてきた「のだめ」の演奏だった。・・・これはディレクターに相当クラシックに詳しいやつがいるに違いない。」
その時はこれを読んでもフーンと言う感じだったのですが、このラプソディー・イン・ブルーを聞かされて、「これは馬鹿にしたモンじゃないかもしれない」と思わせられました。
しかし、やはり年末は忙しく、入院継続中の母の介護もあり、残念ながらじっくり見るというわけにはいかず、ちらりちらりとつまみ食いという感じで終わったのですが、ドラマおたくの妻に聞いてみると何と年始に二夜連続でスペシャル版が放送されると言うではないですか。
母は正月明けからリハビリが再開されるのでそれまでには病院に戻らないといけませんから、このスペシャル版の方は腰を落ち着けて見られそうです。
と言うことで、ユング君もついに「のだめ」初鑑賞となった次第です。
そして、結論から言うとアリアCDの店主と同じで、「・・・これはディレクターに相当クラシックに詳しいやつがいるに違いない」に尽きます。
まずは千秋が指揮者コンクールの予選でハイドンの104番を引いたシーンでは「うーん」とうなってしまいました。ハイドンの難しさを知っている人なんていったいどれほどいるでしょう。さらに、千秋が指揮台に立って流れ出した演奏はまさにクレンペラーを思わせるようなもので、いったい誰がそんな指示を出したのかと舌を巻いてしまいました。
しかし、何よりも「やられた!」と脱帽させられたのは、のだめがオクレール先生にダメ出しをされて「ベーベちゃん」と言われたあとに、「もじゃもじゃ組曲」をレッスンするシーンです。
のだめは自分が作曲した「もじゃもじゃ組曲」をオクレール先生に演奏してもらい、その演奏にダメ出しをします。そして、自分の思いをオクレール先生に伝えると、オクレール先生は「そんなこと楽譜に書いてないじゃないですか」と言うのですが、のだめは「くみ取ってください」と答えます。すると、オクレール先生は、「のだめがこの作品で言いたいことがいっぱいあるように、モーツァルトも言いたかったことがいっぱいあるんじゃないかな。君はその声を本能的にしかとらえない」と答えます。
ここでオクレール先生が語ることは、音楽を指の運動に還元することの「愚かしさ」「つまらなさ」、さらに言えば、音楽に物語性を持ち込むことを否定し、それを純粋な音響の運動体に還元しようとした「現代音楽」の「愚かしさ」「つまらなさ」をこの上もなく簡明かつ率直に批判したものでした。
ユング君はことあるごとに「原点尊重」という錦の御旗に隠れて横行する無味乾燥な音楽をことあるごとに批判してきました。しかし、その事を、これほど簡明でずばり本質を突いた言葉で表現されて、これまた「やられた・・・トホホ」と脱帽するしかありませんでした。
そうなんです。例えば朗読でも同じです。一言一句間違えずにすらすら読み上げても、そこに書かれてある内容を全く理解していなかったら、そんな朗読は絶対に人の心に入っていくはずがありません。音楽も同じです。
指は何一つ間違えずによどみなく鍵盤をたたいたとしても、モーツァルトやシューベルトが語っていることを理解していなければ、そんなものは音楽の名に値しないことは自明のことです。
そんなわけで、すっかり感心させられた事を職場で話すと、早速に若い子が原作のマンガを19巻まで一気に貸してくれました。これもまた読み始めると面白くて一気に読んでしまいました。
様々な事情から士気が低下したオケの常任に就任した千秋の苦闘や、コンクールという非情な世界でのたうち回る学生たちの姿、そして、ますますはっきりしてくるのだめの「天才性」など物語の展開はまだまだ盛り上がっていくようです。
それにしても、このドラマを作った音楽担当者はだれなんだ・・・?恐るべし奴!!

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