類想、恐れるべからず!!

2年ほど前から「俳句」を始めています。
俳句を始めてからよく目にする言葉が「類想」です。

これはクラシック音楽の世界にも存在します。
ショパンのピアノ・コンチェルト1番の第1楽章と都はるみの「北の宿」からとか、中田喜直の「雪の降るまちを」とショパンの「幻想曲ヘ短調作品49」から・・・とかとか・・・です。

考えてみれば、白鍵と黒鍵をあわせても「音」というのは12種類しかないのですから、それを組み合わせていけばどこかで雰囲気の似通った旋律ができてしまうのは仕方がありません。それが、俳句ともなれば全体がわずか17音なのですから、芭蕉以降の歴史を考えれば似通ったものが登場しない方が不思議です。

例えば、「遅刻して小さく使ふ秋扇」(酒井多加子)という句が2001年10月の「俳句通信」に掲載されています。
そして、今月(2016年10月)のインターネット俳句会(現代俳句協会)で「秋扇小さく使ふ通夜の席(泰山木)」が高得点句として選ばれています。

萩の花

萩咲て家賃五円の家に住む 正岡子規

類想を通り越して「パクリ」の匂いすらするのですが(^^;、選者の方もそれには気づかずに「周囲の目もありますので、控えめに「小さく使ふ」、心遣いです。秋扇ですので、ちょうど今頃ですね。」と評も寄せられています。
ただし、俳句の場合はパクリと類想の区別は難しくて、「秋扇を小さく使う」という発想が15年の時を隔ててそれぞれの場所でそれぞれに発想されたものならば「類想」、先行句を既に知っていて「遅刻して」という情景を「通夜の席」に置き換えて投句したのならば「パクリ」と言うことになります。

つまりは、それが「類想」なのか「パクリ」なのかは本人にしか分からないのです。

つまりは、もっと字数を費やす文学作品であるならば全体の半分程度が一致していればそれは完全に「パクリ」と判断できるのですが、俳句のように全体で17文字しかない世界ではその半分が完全に一致する事は普通に起こりうるからです。ですから、その一致を持って作者の人間性を否定するような「パクリ」認定はできないのです。
その意味では、俳句というのは作り手の側に高い倫理性が求められる文学的ジャンルだと言えそうです。

ですから、あくまでも自分の中でのオリジナルな発想であるならば、「類想」と言うことはあまり気にしなくていいのではないかという気がしています。
何故ならば、あまりにも類想を気にしすぎると、そこで本当に大切なものを取り落としてしまうような気がするからです。

その事に気づかされたのは雑誌「俳句」の6月号で特集されていた「類想からの抜け出し方」からでした。
その特集では様々な「類想」が紹介されていて、それはそれで「なるほど」と納得させられました。

「巣箱」はいつも傾いているし、「母」は小さくて何処にも行かぬ存在であり、山には一礼して、村や島には信号機や小学校が一つしかない・・・、等々の発想です。

そこで、そう言う類想から抜け出すために発想を飛躍させろという主張が展開されていました。

  • 「障子影指の狐を鳴かせけり」・・・類想
  • 「冬銀河指の狐を鳴かせけり」・・・障子を外してスケールを広げろ
  • 「気配して猫に開けおく白障子」・・・類想
  • 「気配して猫に開けおく蜃気楼」・・・ここまで飛べば類想から脱出!!

こういう感じなのですが、もう御一方はその主張に対して「私には無理だな」と正直な感想を述べておられました。

確かに、そう言う言葉に置き換えることで「類想感」からは免れているような気はします。
しかし、「気配して猫に開けおく白障子」からは伝わってきた愛猫への思いが「気配して猫に開けおく蜃気楼」ではどこかに吹き飛んでしまっているような気がします。
類想と言われても「障子影指の狐を鳴かせけり」ではある一つのほのぼのとした情景が浮かび上がっていたものが、「冬銀河指の狐を鳴かせけり」からではその様な情景は浮かび上がってきません。

「類想」の危険性を避けるために誰も使わなかったような「言葉選び」に力を注ぐことによって、読み手の心を本当に動かした情景や思いがスルリと抜け落ちてしまっているような気がするのです。
それならば、そう言う思いがストレートに伝わってくる分だけ「類想」の方がまだましです。

そして、このやりとりを読んでいて、巻頭に毎月掲載される特別作品の大部分が全く持って面白くない理由が少しは分かったような気がしました。

よほどの天才や鬼才でもない限り、人の発想などというものは大差ないものです。その大差ない発想を芭蕉以来の歴史の中に置いてみれば、その全てが「類想」にならざるを得ないのが俳句という文学の宿命みたいなものです。
しかし、この「類想」から抜け出せないのでは俳人としてのプライドに関わると考えるのが現在の風潮なので、結果として誰もが使わないような「言葉」を探し出してきて、その「類想」に化粧を施します。

この6月号の巻頭句をザッと見渡してみても、一般の人には読みも意味も理解不能な句がずらりと並んでいます。
私はこの巻頭句の作者に何ら含むところはないのですが、例えば以下のような句は「読む」事すら一般の人には不可能なのではないでしょうか?

  • 「春は名のみの網結にいそしめる」
  • 「春寒の鱗めく星檣にふる」
  • 「花しどみまで白水尾の船は来ず」

「網結」を「あみすき」と読める人は多くないでしょう。意味は「漁網を編むこと。また、編む人。」となっています。とは言え、これは漢字の字面から何となく意味はつかめます。句意は実に持って他愛ないもので、これが巻頭の特別句なのかと感心させられます。
「春は名のみの」という「手垢にまみれた」という言葉ですら裸足で逃げていきそうな「類想」を「網結」という難解な漢字で韜晦しようとしていると言われても仕方がないでしょう。

次の、「春寒の鱗めく星檣にふる」には「ヘッドライトに春雨の道鱗めく」という先行句があります。
「春寒の星」を鱗めくと感じるのと、「ヘッドライトに照らされた春雨の道」を鱗めくと感じるのとでは、その肝の部分において「類想」です。
そこで、その「類想」をかわそうとして「檣」という言葉を持ってきたのでしょうが、おそらくこの言葉を自力で読めて意味が理解できる人はそれほど多くはないでしょう。と言うか「星檣に」という言葉を「ほし しょうに」と分けて読むと気づくまでかなりの時間を要しました。

「檣」は音読みは「ショウ」、訓読みは「ほばしら」です。意味は訓読みのままで「帆柱」のことです。たとえ字余りでも普通に「帆柱」と書けばいいものを、「檣」と言う難しい漢字を使うことで読み手を韜晦して「類想」の誹りを免れようとしています。

これが「花しどみまで白水尾の船は来ず」になると「花しどみ」ってなに?とか「白水尾」って何のこと?って感じで正確に読むことすら難しくて、意味も最後まで理解できませんでした。(^^;
おそらく読み方は「はな しどみまでしろ みおのふねはこず」だと思うのですが、そこに至るまでにかなりの時間を要します。

あれこれ調べてみましたが「花しどみ」という日本語はないようです。ですから、「花しどみまで白」とは「はな しどみまでしろ」と分けて読んで分けて意味理解するしかないようです。

「さるほどにしどみ咲く地のあをみけり」という飯田蛇笏の有名な句があります。

「しどみ」とは木瓜の一種である「草木瓜」の事だと気づきます。
しかしながら、草木瓜は紅色の花をつけるので、「花しどみまで白」とは何のことなのか理解できませんでした。

まさか白内障になって全ての景色が白っぽく見える嘆きではないでしょうから、おそらくは紅色のしどみの花でさえ白っぽくなってしまうような雨降りの情景を詠んだのでしょう・・・か?
しかし、そうだとしても、それに続く「水尾の船は来ず」がまた分かりません。

一般的に「水尾」と言えば京都の地名なのですが、それでは「水尾の船」とは何のことなのか全く分かりません。
そこで国語事典を引いてみれば、「水尾」にはもう一つ「小舟の航路となる水路」という意味があることを発見して、「水尾の船は来ず」とは、そう言う航路に船がやってこないという意味だと言うことが漸くにつかめました。

俳句とは読み手の力を信じる文学だとも言われるのですが、ここまで読み手に苦労を強いるとなると、クラシック音楽の世界における「前衛音楽」という愚かな試みと通ずるものがあると言わざるを得ません。

しかしながら、そこまでの苦労を強いられながら、それでは全体としてどんな情景が作者の心を動かしたのかはなかなか見えてこないのです。おそらくは、「紅色の草木瓜の花でさえ白く見えるほどの雨降りなので、目の前の小さな航路に船すらもやってこない」みたいな意なのかもしれませんが、言葉の配列の難しさに較べて「それがどうしたの?」という情景です。
まさに最後まで辛抱に辛抱を重ねて聞き続けた現代音楽のコンサートみたいなものです。

文学というのは言葉遊びではなくて、その本質は言葉を使って人の心を描き出すものです。
音楽もまた音の配列による遊びではなくて、その本質は音を通して人の心を描き出すものです。
「類想」を恐れて、結果として「言葉選び」に多大な労力を費やし、さらにはその結果として肝心要の最初の「感動」がどこかに吹き飛んでしまうならば本末転倒です。
「心」を忘れた形式主義には未来はないのです。

その発想が作り手の心の底からわき上がったものであるならば「類想」を恐れることも恥じることもないのではないでしょうか。
我ら凡人はそう言う真摯なる「類想」の底から、せめてきらりと輝く一粒の砂金が残ればそれに勝る幸せはないと開き直る今日この頃です。

なお、最初にも述べたように、この巻頭句の作者に何ら含むところはありません。どの号の巻頭句をとっても似たようなものです。
言葉のすぎた部分があればご容赦ください。

なお、私個人としては評価の定まった偉い俳人の句よりは若い人の句が好きですし、自分もそう言う感性を大事にしたいと思います。角川の「俳句」にはそう言う若い人の句も大切に取り上げているので読み続けています。
6月号では、林田麻裕さんの7句がよかったですね。

  1. 紅梅がクレッシェンドに咲いていく
  2. スカートをはいて洗濯目白来る
  3. 恋猫をさしても気づかない君よ

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